第77話「八十枚の使い道」
その夜は、ほとんど眠れなかった。
天井を見上げながら、何度も考えた。前世の俺なら、どうしたか。監査で見つかった不正は、見つけた側が報告する。それが仕事だ。情に流されて数字を曲げれば、次に曲がるのは自分の帳簿になる。
けれど、報告するだけで終わらせていいとも、どうしても思えなかった。
朝になって、俺は授業の前に学院長室の扉を叩いた。
「ずいぶん早いね。顔色も良くない」
「ヴァルター様にお会いしました。全部、聞いてきました」
学院長は何も言わず、窓際の椅子を指した。俺は昨日聞いたことを、順番に、飾らず話した。修繕費の水増し、浮いた八十枚、特待生の補助、そして今も続く返済。
話し終えると、学院長は長いあいだ目を閉じていた。
「そうか。……やはり、そういう理由だったか」
「ご存じだったんですか」
「確証はなかった。ただ、あの年、補助の枠が潰れずに済んだのが不自然だと思っていた。私は、あえてそれ以上は調べなかったのだよ。見たくなかった、というのが正直なところだ」
学院長の声は、いつもの飄々とした調子ではなかった。
「彼を庇うつもりで黙っていたのなら、私も同罪だ。だから、君がどうするかは、君に任せたい」
「任せる、ですか」
「ただし、一つだけ言っておく。事実を隠すことは、勧めない」
「はい。隠すつもりは、ありません」
そう答えると、学院長は少しだけ口元を緩めた。
「では、何をするつもりかな」
「報告は、そのままします。不正は不正です。でも、同じことが二度と起きない形にしたい。ヴァルター様が手を汚さざるを得なかったのは、補助の枠がそもそも足りなかったからです」
俺は鞄から、昨夜書き起こした紙を取り出して机に広げた。
学院の特待生補助の収支を、帳簿から拾い直したものだ。数字の列を指でなぞると、視界の端がじわりと滲んだ。
――景色に薄く数字が重なる。
【鑑定】
対象:特待生補助の年間収支
必要額:金貨百五十枚前後(学費免除と寮費の補助)
現在の財源:金貨七十枚前後
不足:金貨八十枚前後(三年前から構造的に毎年発生している可能性が高い)
補填元:近年は修繕積立と雑費の削減で吸収。ただし不透明
「不足額が、八十枚なんです。あの年に流用された額と、ほとんど同じです。たまたま一度だけ足りなかったんじゃない。毎年、足りない仕組みだったんだと思います」
「なるほど。穴は最初から開いていたわけか」
「はい。だから、穴を塞ぐ案を考えました。一つは、生徒会の予算改革で出た余剰を、補助専用の枠に回すこと。年に四十枚近く出ます。もう一つは、卒業生に向けて、使途を補助に限った寄付を募ること。そして、最後の一つが」
そこで、俺は少し言葉を選んだ。
「ハルトマン家に、正直に相談することです。寄付の使途に、補助を加えてもらえないか。断られるかもしれません。でも、黙ったままよりは、ずっといい」
学院長は紙を手に取り、しばらく数字を眺めていた。
「君は、本当に面白いことを考えるね」
「ただの、帳簿の穴埋めです」
「それを、人の救いに変えるのが君の力だよ」
笑いながらも、学院長の目は少し潤んで見えた。
「分かった。レオン君への報告には、私も同席しよう。ただし、先に話すのは君だ」
昼休み、廊下でリュカに捕まった。案の定、顔に出ていたらしい。
「また難しい顔してる。学院長の件か」
「うん。詳しくは言えないけど、卒業生に寄付を募る案を考えてて」
「卒業生?」
リュカは目を丸くして、それから急に身を乗り出した。
「それ、うちの商会が一番得意なやつだぞ。得意先の名簿とか、年に一度の挨拶状の出し方とか。卒業生の動向なら、父の帳面に結構載ってる」
「本当に?」
「ただし、礼は昼飯でいい。三日分」
「二日にして」
「しぶといな、お前」
笑ってしまった。一人で抱えていたものが、ほんの少しだけ軽くなった。
放課後、監査局の一行が滞在している宿を訪ねた。通された小部屋で、レオンは机に書類を広げて待っていた。
「来たか。聞こう」
俺は、ヴァルターから聞いたことをそのまま話した。隠さず、削らず、庇わず。話し終えるまで、レオンは一度も口を挟まなかった。
「……事実は、それだけか」
「はい。不正の事実は、変わりません。ただ、その背景にあった構造の問題と、直す案も、併せてお伝えしたくて」
補助の収支表を差し出すと、レオンは視線を落とし、紙の端を指で叩いた。
「報告書に、事実は事実として書く。ヴァルター殿の処遇は、俺の決めることではない。だが、この案は、添付資料にする」
「ありがとうございます」
「礼を言うな。お前の案が通るかどうかは、ハルトマン殿の返答次第だ」
そこで、レオンは机の端から一通の封書を取り上げた。
「明後日、ハルトマン殿本人が、学院に来る。監査の結果を、直接聞きたいそうだ」
背筋が伸びた。当主自らが、来る。
「覚悟しておけ。あの人は、数字と同じくらい、人の言葉の中身を見る」
宿を出ると、夜風が冷たかった。八十枚の使い道は、変えられない。けれど、これから先の使い道なら、まだ変えられる。
(次回「ハルトマンの問い」へ続く)




