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万物鑑定士、辺境で経済を制す  作者: 春野ケイ


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第76話「元事務長」

翌日の放課後、俺は学院長から外出許可の札を受け取って、下町へ向かった。


ヴァルターの住まいは、学院から歩いて半刻ほどの、川沿いの小さな家だという。道を教えてくれたのは、ブルーノさんだった。


「行くのかい。気をつけて。……あの方は、悪い人じゃないんだ。それだけは、分かっておいてほしい」


そう言った声が、背中に残っていた。


川風の通る路地の奥に、灰色の壁の平屋があった。庭先には小さな畑があり、豆の蔓が支柱に絡んでいる。戸を叩こうとしたとき、中から人が出てきた。


レオンだった。


「……来たか」


「レオン様。もう、お話を」


「昨日、書記が来たが、戸すら開けてもらえなかった。今日は自分で来て、半刻ほど話した。だが、肝心なことは何も言わなかった」


レオンは、俺の顔をじっと見た。


「お前なら、話すかもしれない。そう思って、あえて長居はしなかった」


「それは、俺を使うということですか」


「違う。先に答えを知りたいだけだ。使うつもりなら、そもそも先にここへ来させない」


それだけ言うと、レオンは外套の襟を直し、路地を引き返していった。冷たい人だと思っていたけれど、今の言葉には、不思議と嘘がなかった。


もう一度、戸を叩く。しばらくして、ゆっくりと扉が開いた。


「……学院の生徒さんかね」


白髪の混じった、痩せた老人だった。眼鏡の奥の目は穏やかで、役人らしい硬さはもうない。ただ、肩が少しだけ丸まっていた。


「ノア・フォン・エーレンフェストと言います。会計の手伝いで、帳簿を見ていました」


「ああ、噂は聞いているよ。厨房の件を直した子だね。まあ、入りなさい」


通された居間は、驚くほど簡素だった。机と椅子、古びた書棚、そして壁際に積まれた帳面の束。


「お茶しかないが」


「お構いなく」


湯気の立つ茶碗を受け取りながら、俺は机の端に置かれた一冊の帳面に目を留めた。表紙には何も書かれていない。けれど、紙の端が、何度も開かれたせいで柔らかく丸まっている。


視界の端が、すっとぼやけた。


――景色に薄く数字が重なる。


それは、学院の帳簿ではなかった。ヴァルター自身の、家計の控えだ。毎月の手当から、決まった額だけが別の欄に移されている。欄の見出しには、小さく「返済」とあった。合計は、金貨三十枚と少し。八十枚のうち、まだ半分にも届かない。二年かけて、少しずつ戻している跡だった。


「……あの帳簿は、ご自身の控えですか」


「見えてしまったかね。年寄りは、隠すのが下手でね」


ヴァルターは、静かに笑った。


「三年前の秋のことは、もう知っているんだろう。八十枚、書き足したのは私だ」


「理由を、聞かせてもらえますか」


「聞いて、どうする」


「分かりません。ただ、数字だけでは、あなたがなぜそうしたのか、読み切れなくて」


しばらく、沈黙があった。外で、川の水音がかすかに響く。


「あの年、特待生の学費の補助金が、足りなくなってね」


ヴァルターが、ぽつりと言った。


「寄付者の方々の志を受けて作った補助の枠だ。ところが、あの年は志願者が増えて、予算が半分も持たなかった。上に掛け合ったが、修繕費は出ても、人にかける金は後回しだと言われた」


「それで、寄付金から」


「ハルトマン殿の寄付は、建物の修繕にのみ使う決まりだった。流用は許されない。だが、屋根が直らなければ、冬に寮が潰れる。屋根は直さねばならん。同時に、補助が切れたら、あの年の特待生たちは学院を去るしかなかった」


湯気の向こうで、老人の目が揺れた。


「だから、修繕費を水増しして帳簿に載せ、浮いた八十枚を補助に回した。……不正だ。弁解のしようもない。だが、あの子たちを追い出す方を、私は選べなかった」


胸の奥が、ずしりと重くなった。ケインの顔が、頭に浮かんだ。あの年の特待生たちは、俺たちの一つ上の先輩にあたる。


ヴァルターは、悪人ではなかった。けれど、悪意のないやり方が、正しいやり方になるわけでもない。


「ノア君。私は、もう覚悟はできている。だが、あの子たちには、何の落ち度もない。それだけは、どうか」


「……お話は、ちゃんと受け取りました」


答えられたのは、それだけだった。


外に出ると、日はすっかり傾いていた。川面が赤く染まっている。


寮に戻ると、談話室でケインがひとり、本を開いたまま窓の外を見ていた。


「ノアさん。お帰りなさい」


「ただいま。どうしたの、ぼんやりして」


「いえ。今日、特待生の先輩に会ったんです。去年卒業された方が、挨拶に来ていて」


ケインは、少しだけ声を落とした。


「その人が言っていました。『自分の代は、補助が打ち切られかけて、本気で退学を覚悟した年があった』って。でも、いつの間にか続くことになって、理由は今でも知らないそうです」


喉の奥が、きゅっと締まった。


「……そうなんだ」


「僕、運が良かったんだと思います。誰かが見えないところで守ってくれていたのなら、ちゃんと恩を返さなきゃって」


ケインの横顔は、まっすぐだった。何も知らないからこその、澄んだ顔だった。俺は何も言えず、ただ頷いて、隣に腰を下ろした。


八十枚の行方は、分かった。けれど、分かったことが、そのまま解決にはならない。この事実を、誰に、どう伝えるのか。


先を行くレオンの影は、もう見えなかった。


(次回「八十枚の使い道」へ続く)


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