第75話「寄付金の行方」
監査二日目の朝、レオンは帳簿室には来なかった。書記の二人だけを残し、自分は学院長と事務棟の奥へ消えていく。
おかげで、俺は少しだけ自由に動けた。
まず向かったのは、帳簿室の隣にある資料庫だった。会計簿には、金額の結果しか載らない。何にいくら使い、誰がいくら払ったのか。その裏付けになる請求書や領収書の束は、年ごとの箱に分けて、別に保管されている。
三年前の秋の箱は、棚の下段にあった。埃を払って蓋を開けると、紙の匂いが鼻に届く。
「ノア君、そんなところで何を」
後ろから、ブルーノさんの声がした。
「寄付金が使われた先を確かめたくて。三年前の秋に、東寮の屋根の修繕がありましたよね」
「ああ……あったね。雨漏りがひどくて、急ぎで直したんだ」
「そのときの請求書を、見せてもらってもいいですか」
ブルーノさんは一瞬だけ迷った顔をして、それから黙って頷いた。
箱の中から、大工の親方の署名がある請求書が出てきた。紙を持った指先に、ざらりとした手触りが伝わる。
――景色に薄く数字が重なる。
〈対象:東寮屋根修繕の請求書〉
〈請求額:金貨百二十枚〉
〈資材費・人件費の内訳:相場と整合。水増しの形跡なし〉
〈会計簿上の修繕費:金貨二百枚〉
〈差額:金貨八十枚、請求書に裏付けなし〉
息を止めた。請求書は正直だった。親方はきちんと相場通りの額しか取っていない。それなのに、会計簿のほうは二百枚と書かれている。
「ブルーノさん。この修繕費、会計簿では二百枚になっています」
「そんなはずは」
ブルーノさんの顔色が変わった。慌てて自分の帳簿を開き、該当の頁を指でたどる。確かに、二百枚と書かれていた。しかも、あの別綴じの寄付金の記録と、金額がぴたりと合っている。
「寄付金が二百枚入って、修繕費も二百枚出た。そう見えるように、数字が揃えられているんです」
「でも、実際の請求は百二十枚で……差額の八十枚は、どこに」
「そこが分かりません。ただ、寄付金の側も、あの頁だけ書き足されていました。最初に入った額は、もっと少なかったのかもしれない」
言いながら、自分でも整理がつかなくなってきた。寄付が増やされたのか、修繕費が増やされたのか。それとも、両方か。片方だけなら、ただの書き間違いで済む。両方が揃っているからこそ、誰かの意図を感じる。
ブルーノさんは、椅子に崩れるように腰を下ろした。
「実は……あの年の秋、前の事務長に頼まれたことがあるんだ」
「前の事務長、ですか」
「ヴァルター様だよ。二年前に退かれたんだが、あの頃は私が補佐でね。ある晩、『寄付の綴りを一晩だけ預かる』と言われて、渡した。翌朝には返ってきたんだが」
「そのとき、中身は見ましたか」
「見ていない。……見ようともしなかった」
絞り出すような声だった。
「ずっと、喉に刺さった小骨みたいに思っていたんだ。でも、事務長のなさることに口を挟める立場じゃなかった。それに、あの方には、恩もあってね」
ブルーノさんを責める気にはなれなかった。几帳面な人だからこそ、気づいていたのだと思う。気づいていて、見なかったことにするしかなかった。立場の弱い人間が、誰にも責められずに抱え込む種類の重さだ。
「ブルーノさんが悪いわけじゃありません。まず、事実を揃えましょう。誰が、何のために、どこへ流したのか」
「……ああ。ありがとう、ノア君」
昼休み、中庭でエリーゼに会った。弁当を広げながら、さりげなく話を向ける。
「エリーゼ、ハルトマン家という商家を知ってる?」
「王都の大店ですね。父の領地とも取引があるので、名前くらいは。どうしてですか」
「ちょっと、帳簿の整理で名前が出てきて」
「そういえば、そこの当主は、細かいお金のことにとても厳しい方だと聞きます。寄付をするにも、使い道を毎回確認するとか」
箸が止まった。使い道を毎回確認する当主が、三年も八十枚の食い違いに気づかなかったとは考えにくい。気づいていて黙っているのか、それとも、確認の書面そのものが別に作られていたのか。
「ノア、顔が怖いですよ」
「ごめん。考え事」
「あまり抱え込まないでくださいね。困ったら、私にも言ってください」
その一言に、少し肩の力が抜けた。礼を言って、残りの弁当を急いで平らげた。
その日の夕方、俺は請求書と会計簿の写しを手に、学院長室へ向かった。
学院長は黙って写しに目を通し、深く息を吐いた。
「八十枚、か。大きな額ではないが、小さくもない。そして、寄付元の家名を考えると、厄介だ」
「寄付元は、どちらの家なんですか」
「ハルトマン家だよ。王都でも指折りの商家で、この学院にも長く支援してくださっている。疑いが広がれば、学院の信用そのものに関わる」
そこで学院長は、ふと窓の外に目をやった。
「それと、気になる知らせが入っていてね。レオン君の書記のひとりが、昼過ぎに事務棟を出ていったらしい。行き先は、ヴァルター殿の住まいだそうだ」
「もう、そこまで」
「彼は、君より一歩先にいる。だが、まだ私たちには間に合う余地がある」
窓の外は、すっかり夕闇だった。八十枚の行方と、一人の元事務長。それを追う側と、守りたい側。
重い歯車が、静かに、確かに回り始めていた。
(次回「元事務長」へ続く)




