第74話「監査の通達」
通達から一週間。学院の事務棟は、朝から落ち着かない空気に包まれていた。
俺はこの数日、放課後のほとんどを帳簿室で過ごしている。事務官のブルーノさんと二人で、棚に積まれた過去五年分の会計簿を日付順に並べ直し、抜けた頁がないかを確かめていく作業だ。
「ノア君が来てくれて助かったよ。私一人だと、どこから手をつけていいか分からなくてね」
「いえ、ほとんど並べ替えただけです。中身は、ブルーノさんがずっと付けてこられたものですから」
実際、帳簿の記載そのものはきれいだった。几帳面な字で、数字の桁も揃っている。ただ、几帳面すぎるせいで、かえって気になる箇所がひとつだけあった。寄付金の受け入れを記した別綴じの一冊だけが、他の帳簿と綴じ方が違っている。
それを手に取ったとき、扉の外が急に騒がしくなった。
「監査局の方々が、お見えになりました」
学院長に付き添われて入ってきたのは、三人連れだった。後ろの二人は書記らしい若い男。そして先頭に立つ長身の男の顔を見て、俺は思わず背筋を伸ばした。
レオン。
最後に会ったのは、辺境の屋敷だった。あのときより髪が少し短くなって、頬の線が鋭くなったように見える。それでも、冷たいとも温かいとも言い切れない、あの静かな目は変わっていない。
「久しぶりだな、ノア」
「ご無沙汰しております、レオン様」
「背が伸びた。あのとき、机の縁から目が出ていなかったのに」
「それは、言わないでください」
ブルーノさんが目を丸くしてこちらを見ている。学院長だけが、愉快そうに口の端を上げていた。
「顔見知りなら話は早い。ノア君は生徒会の会計として、今回の帳簿整理に協力してくれている。必要があれば、彼に聞いてくれ」
「承知しました。では早速、五年分の会計簿と、寄付金の受け入れ記録を拝見します」
レオンの口調は、あくまで役人のそれだった。書記の二人が持参した机に、帳簿が一冊ずつ運ばれていく。
俺はその間、なるべく邪魔にならない位置に控えていた。そして、さっき気になった別綴じの一冊が、レオンの手元に渡るのを見ていた。
――景色に薄く数字が重なる。
【鑑定】対象:寄付金受け入れ記録(別綴じ)/記載内容:年に三度、特定の家名からの寄付が継続して計上されている/気になる点:三年前の秋の頁だけ、墨の色と筆圧が前後と異なる。金額の欄に、後から書き足した跡がある
三年前の秋。ちょうど、学院の修繕費が大きく動いた年だった。
レオンは、その頁で手を止めた。顔色は変わらない。ただ、指先が、紙の端を一度だけ軽くなぞった。
気づいたのだと、思った。あるいは、最初から知っていて、ここを見に来たのかもしれない。
昼過ぎに一度休憩が入り、書記たちが昼食に出ていった隙に、レオンが俺の傍へ来た。
「この記録を、お前はどう見る」
「……俺の口から言っていいことなのか、分かりません」
「正直でいい。ここには、俺とお前しかいない」
少し迷ってから、俺は答えた。
「三年前の秋の頁だけ、後から手が入っているように見えます。ただ、それが不正なのか、単なる訂正なのかは、頁だけでは判断できません」
「頁だけでは、か」
レオンは、わずかに目を細めた。
「いい答えだ。決めつけないのは、悪くない」
それだけ言うと、彼は何事もなかったように机へ戻っていった。褒められたのか、試されたのか、よく分からなかった。
席に戻ると、ブルーノさんが小声で尋ねてきた。
「ノア君、あの方と、どういう知り合いなんだい」
「昔、領地で少しお世話になっただけです」
「少し、にしては、向こうがずいぶん君を見ていたけどね」
曖昧に笑って、俺は並べ直した帳簿の背表紙に目を落とした。ブルーノさんの指先が、湯呑みの縁を何度もなぞっている。この人もまた、落ち着かないのだ。
夕方、監査の初日が終わった。レオンたちは宿に引き上げ、事務棟には静けさが戻る。そこで学院長に呼ばれ、俺は一人で学院長室を訪ねた。
「お疲れさま。初日はどうだった」
「緊張しました。レオン様は、やはり寄付金の記録に目を向けておられました」
「そうだろうね」
学院長は窓辺で、ゆっくりと茶を注いだ。
「では、約束していた『裏』の話をしよう。あの寄付金の件は、実は私も数年前から引っかかっていた。ただ、証拠もなく疑えば、学院の中に亀裂が入る。だから、手を出せずにいた」
「それを、レオン様に調べさせるおつもりですか」
「調べさせる、というより、彼が来てくれたのは好機だと思っている。ただし、外から来た人間に全部を掘り返されて、守りたいものまで壊されるのは困る。君には、彼の邪魔をするのではなく、彼より先に、事実を見つけてほしい」
「先に、ですか」
「そう。この学院の中で何が起きたのか、中の人間として知っておく必要がある。頼めるかい」
茶の湯気の向こうで、学院長は笑っていた。けれど、その目の奥には、笑いきれないものが沈んでいるように見えた。
「……やってみます」
「ありがとう。無理はしないでおくれ」
学院長室を出ると、廊下はすっかり暗くなっていた。
三年前の秋。書き足された金額。そして、あの家名。
最後の一年は、思っていたよりずっと長く、重い一年になりそうだった。
(次回「寄付金の行方」へ続く)




