第73話「最終学年」
春の風が、寮の窓から吹き込んでいた。休暇明けの学院は、新しい年度の浮ついた空気に包まれている。三年目。最後の一年が、始まった。
「おい、ノア。起きてるか」
扉を叩く音と同時に、リュカが顔を覗かせた。
「起きてる。もう着替えてるよ」
「とうとう最上級生だな。全然実感ないけど」
「去年の今ごろも、同じこと言ってた気がする」
「そうだったか?」
とぼけた顔のリュカと連れ立って食堂へ向かうと、廊下の途中でケインが待っていた。血色のいい顔で、きちんと制服の襟を整えている。一年目の青白い頬を思い出して、俺は少しだけ胸が温かくなった。
始業式のあと、教室で担任が紙を配った。進路希望調査、と大きく書かれている。
「卒業後の希望を、正直に書いてくれ。第一希望から第三希望まで」
教室がざわついた。隣の席のリュカが、紙を睨んでうなる。
「俺は家の商いを継ぐしかないんだよなあ。面白味はないけど、まあ向いてはいると思う」
「俺は、王都の商会に勤めたいです」
ケインが、迷いのない声で言った。
「特待生として学ばせてもらった恩を、ちゃんと仕事で返したいので」
「いい目標だと思う」
そう答えながら、俺は自分の紙に視線を落とした。辺境に戻るのか、王都に残るのか。まだ、どの欄にも文字が書けなかった。
昼休み、中庭のベンチでエリーゼとギルベルトに会った。二人が並んで座っているのは、少し前なら想像もできない光景だった。
「ノア様も、進路の紙ですか」
「まだ真っ白」
「実は、私もです。婚約は決まりましたが、その先で何をするかは、また別の話ですから」
エリーゼは、そう言って苦笑した。
「俺は、卒業したら領地に戻ります」
ギルベルトが、迷いなく言った。
「実家の立て直しは、まだ道半ばです。父と一緒に、一から数字を見直していくつもりです」
その横顔には、かつての張り詰めた気配はなかった。一年前、中庭で肩を落としていた背中が嘘のようだった。
放課後、俺は学院長に呼ばれた。扉を開けると、オズワルド学院長は、いつもの飄々とした顔で、窓辺に立っていた。
「来たね。三年目の挨拶は、もう済ませたかな」
「はい、今朝がた。新しい教室にも、慣れてきました」
「それは結構。さて、少し面倒な話をしようか」
学院長は机の上から、封の切られた書状を取り上げた。王都財務監査局の印が、紙の端に見える。
「一週間後に、財務監査局が、この学院の会計に入る。数年に一度の定期監査だが、今年は少し様子が違うらしい」
「違う、というと」
「担当官の名前に、見覚えがあるはずだよ」
差し出された書状に目を落とした瞬間、視界の端で、文字の並びがふっと浮き上がった。
――景色に薄く数字が重なる。
書状の文面そのものは、ただの形式的な通達だった。けれど、日付と宛先、そして署名の順序を拾い上げていくと、見えてくるものがある。通常なら三週間前に届くはずの通達が、一週間前に届いていること。学院の会計だけでなく、寄付金の受け入れ記録まで、提出対象に含まれていること。そして、担当官の署名が、見覚えのある筆跡で綴られていること。
「レオン様、ですか」
「やはり、分かるか。さすがだね」
学院長は、楽しそうに口の端を上げた。
「あの巡察使殿が、わざわざ急ぎの形で来る。何か、含むところがあるのだろう。ただ、彼が何を見たいのかまでは、私にも分からない」
「俺に、できることがありますか」
「生徒会の会計である君に、学院の帳簿の整理を手伝ってもらいたい。表向きは、そういう依頼だ」
「表向き、ですか」
「裏のほうは、追って話そう。まずは、自分の目で帳簿を見てごらん。去年、厨房で見つけたように」
学院長は、それ以上は何も言わなかった。俺は書状を返し、一礼して部屋を出た。
廊下の窓から、夕暮れの校庭が見えた。進路の紙は、まだ真っ白のままだ。
寮に戻ると、談話室でリュカとケインが菓子をつまんでいた。俺の顔を見るなり、リュカが身を乗り出す。
「学院長、何の用だったんだ。説教か?」
「説教なら、俺じゃなくてリュカが呼ばれると思う」
「ひどいな」
笑い合ったあとで、監査のことだけを短く話した。レオンの名前は出さなかった。まだ、出さないほうがいい気がした。
「監査、ですか」
ケインの手が、菓子の途中で止まった。
「特待生の枠の帳簿も、見られますよね。学費の免除分とか」
「たぶん、見られると思う。でも、ケインが気にすることは何もないよ。きちんと決まった通りに処理されてるはずだから」
「……そう、ですよね」
そう言いながらも、ケインの指先はまだ少し落ち着かなかった。一年目の頃、帳簿という言葉ひとつで青ざめていた彼を思い出す。今は、怯えるというより、自分の居場所を守ろうとする顔だった。
「大丈夫だって。ノアが整理するんだろ。こいつが触った帳簿は、だいたい前より綺麗になる」
「リュカ、ハードルを上げないで」
「事実を言っただけだ」
三人で笑って、その夜は少し早めに部屋へ戻った。窓を開けると、春先の冷たい夜気が頬に触れた。
机の上の白い紙を、しばらく眺めた。辺境に戻るのか、王都に残るのか。どちらを選んでも、レオンの名前は、きっとそこに付いて回る。
あの去り際の忠告が、不意に耳に蘇る。
「王都には、自分のような人間ばかりではない」
あの言葉の意味を、もうすぐ、自分の目で確かめることになるのかもしれなかった。
(次回「監査の通達」へ続く)




