第82話「別れの準備」
冬の初めの朝、ブルーノさんが生徒会室に駆け込んできた。手に、分厚い封筒の束を抱えている。
「ノア君、届いたよ。卒業生からの返事だ」
机いっぱいに広げた封書を、みんなで一通ずつ開けていった。紙の擦れる音と、時折もれる小さな歓声。ミーナは、開けた手紙の数字を声に出して帳面に写していく。
「三十二枚、約束してくださった方がいます。毎年、続けると書いてあります」
「こっちは、小口だけど十人分まとめて。同じ年の卒業生同士で相談して出してくれたって」
最後の一通を数え終えたとき、ハインツが顔を上げた。
「集計できました」
発送したのは百二十通あまり。そのうち、返事が届いたのは五十一通。一年分の約束額を足し合わせると、金貨四十二枚を超えた。
――景色に薄く数字が重なる。
〈基金の毎年の収入見込み:既存財源七十+生徒会余剰四十+卒業生寄付四十二=金貨百五十二枚〉
〈毎年の支出:金貨百五十枚〉
〈年間収支:二枚の黒字〉
〈元本八十枚は、手つかずで維持可能〉
「目標の三十枚を、十二枚も上回りました」
声に出すと、生徒会室がわっと沸いた。会長のロザリンデさんが、ほっと息をついて、椅子に深く腰掛ける。
「元本を崩さずに、回る計算ね。まさか、ここまで集まるなんて」
「手紙の文面の力ですよ。ギルベルトさんと、エリーゼさんの」
「いや、きちんと収支を公開すると約束したからだ。数字が見えると、人は信じやすい」
照れくさそうに言うギルベルトの手元にも、一通の返事が握られていた。自分の実家の遠縁にあたる卒業生からの、励ましの言葉だった。
その日から、卒業までの時間は、あっという間に流れた。
まず、会計の引き継ぎだった。放課後の生徒会室で、俺はミーナを机の隣に座らせ、一冊ずつ帳簿を渡していった。
「これが、予算の台帳。支出は必ず、領収と一緒に綴じること。こっちは、基金の台帳。数字の桁は、二人でそれぞれ確認する癖をつけて」
「はい。ノアさんがいなくなっても、ちゃんと回せるようにします」
「無理に一人でやらなくていいよ。分からない時は、ブルーノさんや、会長に聞けばいい。それが、一番の近道だから」
ミーナは、真剣な顔で帳面にペンを走らせた。小さな背中を見ながら、一年目の自分を思い出す。誰にも頼れなかった、あの頃の自分。この子には、同じ思いはさせたくなかった。
次に、ケインの話だ。
「ノアさん! 合格しました!」
寮の廊下で、ケインが紙を握りしめて飛びついてきた。ハルトマン商会の採用試験を受けていたのだ。
「おめでとう。本当に、よく頑張ったね」
「はい。ハルトマン様が、面接で『君の帳簿の字は、読む人を安心させる』って、褒めてくださって」
ケインの目は、真っ赤だった。補助がなければ、この場所には、いられなかった少年だ。その彼が、補助を支える側へ回ろうとしている。
「いつか、基金にも寄付できるように、頑張ります」
「うん。きっと、できるよ」
何も知らないケインは、どこまでも素直で、まっすぐだった。それが、少しだけ、眩しかった。
ギルベルトとは、中庭で最後の長話をした。
「実家の帳簿が、去年の末に、わずかだが黒字になった」
「本当に?」
「ああ。父と二人で、一から数字を見直した結果だ。まだ借金は残っているが、道は見えた」
ギルベルトは、懐から折りたたんだ紙を取り出して、俺の手に乗せた。
「これは、お前に渡しておく。実家の収支の写しだ。もし、いつか俺の領地が行き詰まったら、これを見て、遠慮なく叱ってくれ」
「叱るのは、得意じゃないんだけど」
「そこは、頑張ってくれ」
二人で笑った。初めて会った日に、睨み合っていたのが嘘のようだった。
エリーゼからは、昼休みに報告があった。
「フェルディナント様から、返事が来ました」
「どうだった?」
「『二年の延期を了承する。ただし、交易所の黒字化の報告は、半年ごとに受けたい』と。条件付きですが、否定ではありませんでした」
彼女は、晴れやかな顔で笑った。
「それと、末尾に一行だけ。『楽しみにしている』と書かれていました。あの方なりの、激励だと思うことにします」
「いい返事だよ。半年ごとの報告は、むしろ助けになる。数字を見せる機会が、自然に増えるから」
「ええ。頑張ります。ノアにも、胸を張って報告できるように」
リュカは、というと、毎日のように実家に宛てた手紙を書いていた。ノアの案を、親父にどう説明するか、下書きを何度も破り捨てては、うんうん唸っている。
「卒業したら、まず親父を説得だ。店の数字を、ノアに見せる許可をもらう」
「無理しないで。急ぐ必要はないから」
「いや、急ぐ。三年待たせたんだ、あの親父を」
意気込む横顔に、思わず笑ってしまった。
そんな日々の終わり、一通の手紙が、寮の俺の部屋に届いた。差出人は、レオンだった。
『卒業式の翌日、午前に、王都財務監査局の執務室へ来い。話がある』
たった一行だった。蝋の封印は、見覚えのある監査局の印。
便箋を持つ手に、じわりと汗が滲む。ハルトマン氏の宿題。リュカの言葉。辺境で待つ、父や、クラーラ、ヴェルナー。いくつもの顔が、頭の中で順に浮かんでは、消えていく。
机の上には、真っ白のままの進路の紙が、まだ一枚、残っていた。
窓の外には、初雪が静かに降り始めていた。
(次回「卒業の日」へ続く)




