第71話「返答」
一週間後、エリーゼが、息を切らして生徒会室に駆け込んできた。普段の落ち着いた所作が嘘のように、頬には赤みが差していた。
「正式な返答が、届きました」
その顔には、緊張と期待が入り混じっていた。俺たちは、人気のない空き教室に移り、書状を広げた。フェルディナント家の印が、以前よりも丁寧に押されている気がした。窓の外には、冬の澄んだ空気が広がっている。
「読みます」
エリーゼの声が、わずかに震えていた。
「……婚約の条件として提示された政治的後ろ盾について、範囲を特定の議題三項目に限定し、期間は五年とする。五年後、双方の合意があれば更新も可能とする」
俺は、思わず安堵の息を漏らした。ほぼ、提案した通りの条件だった。
「通った、ってことですよね」
「はい……はい、そうです」
エリーゼの目に、涙が浮かんでいた。これまで張り詰めていた何かが、ようやく緩んだような涙だった。
「良かった、本当に」
俺も、思わず胸が熱くなるのを感じた。あの初雪の日、硬い表情で書状を差し出した彼女の姿が、頭をよぎる。
俺は、その書状にもう一度目を落とした。
――景色に薄く数字が重なる。
〈対象:正式な返答文書/条件の内容:提示した条件案がほぼそのまま反映されている/書面の性質:事務的な文言に留まらず、双方の合意を尊重する姿勢が随所に見られる/評価:公正な取引として成立していると判断可能〉
形だけの譲歩ではなく、誠実に検討された結果だということが、文面からも伝わってきた。
「エリーゼさんの提案が、ちゃんと認められたんだと思う」
「ノア様の助けがなければ、ここまで来られませんでした」
「いや、最後に向こうを説得したのは、エリーゼさんの言葉です」
エリーゼは、しばらく涙を拭っていたが、やがて顔を上げ、晴れやかに笑った。
「父にも、すぐに知らせないと」
「うん。良い報告だ」
その日の夕方、俺たちは生徒会室に戻り、ヴィンフリートたちにもこの話をした。
「それは、おめでとう」
ヴィンフリートが、珍しく表情を緩めて言った。
「エーレンフェスト、お前のおかげで、生徒会の予算も、今回の縁談も、どちらもうまく収まったわけだ」
「俺だけの力じゃないです。みんなが、それぞれの場所で頑張ったからです」
「そういう謙遜も、お前らしいな」
ロザリンデが、くすりと笑った。
「ハインツさんも、お疲れ様でした。色々と、記録をまとめてもらって」
「いやいや、大したことはしてないよ。ただ、見ていて楽しかった」
ハインツが、珍しく朗らかな笑みを見せた。生徒会室には、この一年の疲れを労うような、穏やかな空気が満ちていた。
窓の外、冬の日が傾き、学院の中庭に積もった雪が、夕焼けに赤く染まっていた。あと数日で、冬の休暇が始まる。学院祭から始まり、予算改革、ギルベルトとの対立、そしてエリーゼの縁談――二年目は、振り返れば、驚くほど多くのことが起きた一年だった。
「来年は、もう少し落ち着いた年になるといいですね」
エリーゼが、そう言って小さく笑った。
「うん。でも、そう簡単にはいかない気もする」
「ノア様が、そう言うと、本当にそうなりそうで怖いです」
二人で顔を見合わせて笑った。窓の外、雪はいつの間にか止み、澄んだ夕空が広がっていた。
もうすぐ、冬の休暇。もう一度、あの辺境の屋敷に帰る時が近づいていた。クラーラやヴェルナー、父や母に、この一年の出来事を、どんなふうに話そうか。特待生食事問題、ギルベルトとの対立と和解、そしてエリーゼの縁談――どれも、一言では語りきれない重みを持った出来事だった。俺は、そんなことを考えながら、静かに窓の外を見つめていた。
王都での日々は、辺境とはまるで違う速さで、様々な人の思いと数字を巻き込みながら進んでいく。それでも、根っこにあるものは、きっと変わらない。誰かの困りごとに気づき、数字でその裏側を見つめ、そして人の手で解決していく。その繰り返しが、俺という人間を、少しずつ作り上げているような気がした。
(次回「二度目の帰省」へ続く)




