第69話「冬の便り」
初雪がちらついた朝、エリーゼが、いつになく硬い表情で生徒会室を訪ねてきた。廊下を歩く足取りにも、いつもの落ち着きがなかった。
「少し、相談したいことがあって」
放課後、人気のなくなった空き教室で、エリーゼは一通の書状を差し出した。フェルディナント家の紋章が押された、格式張った文書だった。手渡す指先が、かすかに震えている。
「正式な、婚約の申し入れです」
俺は、思わず息を呑んだ。噂の域を出なかった話が、ついに現実の一歩を踏み出したらしい。
「おめでとう、って言っていいものか、分からないです」
「私も、正直分かりません」
エリーゼは、書状を見つめながら続けた。まだ気持ちの整理がついていないのが、その表情から伝わってきた。
「条件が、書いてあるんです。婚約の見返りとして、シュタイン家は、中央での政治的な後ろ盾を、フェルディナント家の意向に沿う形で提供すること、と」
「政治的な後ろ盾、というと」
「議会での発言や、票の取りまとめを、向こうの都合に合わせて動かす、ということだと思います。実質、シュタイン家の独立した判断を、手放すようなものです」
「それは、随分と一方的な話ですね」
「シュタイン家の立場を考えれば、断りにくい形になっているとも言えます。婚約という体裁を取りながら、実質的には従属を求められているような」
エリーゼの声には、悔しさが滲んでいた。
俺は、その書状に目を落とした。
――景色に薄く数字が重なる。
〈対象:婚約申し入れの条件文書/絶対条件と交渉余地の区分:婚約そのものは固定的な話だが、政治的後ろ盾の範囲・期間については明確な数値・期限の記載がなく、交渉の余地がある形式/相手側の狙い:シュタイン家を将来的な足がかりとして確保したい意図が強い〉
婚約そのものは動かないとしても、その周辺の条件は、まだ固まりきっていない。俺は、その点に希望を見出した。
「エリーゼさん、これ、条件の部分は、まだ交渉の余地があると思います」
「交渉、ですか」
「うん。期間や範囲について、具体的な数字が書かれてない。つまり、まだ詰めきってない状態だと思う」
エリーゼの目に、わずかな光が戻った。
「婚約自体を、覆すことはできないかもしれません。でも、条件を、もう少しシュタイン家に不利にならない形に、変えられる可能性はあると思う」
「そんなこと、できるんでしょうか」
「学院祭の時、値踏みし返していい、って言ったこと、覚えてますか」
「もちろんです」
「今回も、同じだと思う。向こうが条件を出してきたなら、こっちも、こっちの条件を出せばいい」
エリーゼは、しばらく黙って書状を見つめていた。それから、意を決したように顔を上げた。
「父に、相談してみます。それと……もし、よろしければ」
「はい」
「条件の整理を、手伝っていただけませんか。私一人では、どこまでが交渉できる部分か、正直、見極めがつきません」
「もちろん、手伝います」
「うちの父にも、相談してみます。フェルディナント様のお父上とも、面識があるはずですから」
「うん、頼りになると思う」
エリーゼは、深く頭を下げた。
「ありがとうございます。心強いです」
「あと、フェルディナント様が、どこまで本気で条件に拘っているかも、見極めた方がいいかもしれません。学院祭の時の様子だと、案外、話が通じる相手にも思えたので」
「そうですね……あの方なら、頭ごなしに突っぱねる、ということはない気がします」
エリーゼの声に、わずかな希望の色が戻っていた。
窓の外、初雪はいつの間にか本降りになっていた。白く染まっていく校庭を眺めながら、俺は、これから始まる交渉の難しさを、静かに覚悟していた。ただの学院祭の会計とは、また違う重みがある。相手は、貴族社会の力関係そのものだ。それでも、逃げるつもりはなかった。
「エリーゼさんの人生が懸かってる話だから、数字だけで割り切れない部分も、きっとある」
「それでも、手伝ってくださるんですか」
「うん。数字で整理できる部分だけでも、少しは肩の荷が軽くなるはずだから」
「一緒に、乗り越えましょう」
俺の言葉に、エリーゼは、小さく、けれどはっきりと頷いた。窓の外の雪は、まだしばらく降り続きそうだった。
(次回「条件交渉」へ続く)




