第68話「静かな秋」
手紙を送ってから十日ほど経った、ある朝のことだった。教室に入ると、ギルベルトが真っ先にこちらへ駆け寄ってきた。廊下ですれ違う生徒たちが、その勢いに驚いたように振り返るほどだった。
「父から、返事が来ました」
その顔には、これまで見たことのない明るさがあった。俺たちは、朝の空き時間を使って、廊下の隅で立ち話をした。
「どうでしたか」
「意外なほど、あっさり受け入れてもらえました。むしろ、『よく気づいた』と褒められたくらいで」
ギルベルトの声は、少し上ずっていた。
「父も、内心では限界を感じていたみたいです。ただ、自分から言い出すのは、プライドが邪魔をしていたらしくて。俺が先に言い出したことで、かえって助かった、とまで書いてありました」
「爵位のことは」
「返上の話は、一旦保留になりました。段階的な立て直しを試して、それでも駄目なら、その時に考える、と」
ギルベルトが差し出した手紙を、俺は思わず覗き込んだ。
――景色に薄く数字が重なる。
〈対象:グレイフェンベルク伯からの返信/文面の性質:形式的な社交辞令ではなく、具体的な数値目標(交際費削減率、期限)まで踏み込んだ内容/信頼度:本気で立て直しに取り組む意思の表れと判断可能〉
形だけの安心材料ではなさそうだった。数字にまで踏み込んだ返信は、父親自身の本気度を物語っている。
「これ、ちゃんと本気の返事だと思います」
「そう、ですか」
「うん。数字まで書いてある返事って、口先だけじゃできないので」
俺は、心の底からほっとした。あの日、中庭で見たギルベルトの絶望した背中を思い出すと、この結果は、決して小さなものではなかった。
「良かったです、本当に」
「あなたのおかげです。あの提案がなければ、俺はただ、実家が沈んでいくのを、指をくわえて見ているだけだったと思います」
放課後、俺はエリーゼにもこの話を伝えた。
「まあ、良かったですね」
エリーゼは、心からほっとしたような表情を見せた。
「グレイフェンベルク家の噂も、これで少しは落ち着くかもしれません」
「うん。ギルベルトさんも、随分変わった気がする」
「変わった、というと」
「前は、とにかく人を見下すような態度でしたけど、今は違います。何というか……ちゃんと、地に足がついた感じがします」
その日の昼休み、俺は珍しく、ギルベルトのグループの生徒たちが、彼を交えて楽しそうに話しているのを見かけた。以前のような、取り巻きと主人めいた関係ではなく、対等な雰囲気があった。
「あの噂、流したのは俺だったんだ」
ギルベルトが、自らその場で打ち明けているのが、遠目にも聞こえてきた。
「悪かった。エーレンフェストにも、もう謝った」
取り巻きの一人が、驚いたような顔をしていた。
「部長が、そんなこと自分から言うなんて」
「言わないと、格好悪いだろう。人のせいにしたまま、涼しい顔をしてるのは」
それでも、ギルベルトの態度は、以前よりずっと堂々として見えた。過ちを隠すのではなく、自分の言葉で認める姿は、俺の目には、むしろ好ましく映った。遠くから見ていたことに気づいたのか、彼はふと視線をこちらに向け、小さく頭を下げてきた。俺も、軽く頷き返した。
数日後、生徒会室で、ヴィンフリートがふとこんなことを言った。
「最近、学院の空気が少し変わった気がするな。誰のおかげかは、分からないが」
「俺は、何もしてませんよ」
「そう謙遜するな。お前が来てから、色々な歯車が、少しずつ噛み合い始めている」
ロザリンデも、隣で頷いていた。
「馬術部の件も、贔屓の噂の件も、結局はみんな、数字と誠実さで解決してきたものね」
「ハインツさんも、そう思いますか」
書記のハインツは、記録の手を止めて、少し考えるような顔をした。
「そうだな。以前は、誰かの機嫌を損ねないことばかり気にしていた気がするが、最近は、正しいことを正しいと言いやすくなった。そんな空気を感じるよ」
俺は、少し面映ゆい気持ちになった。特別なことをしたつもりはない。ただ、目の前にある問題を、一つずつ片付けてきただけだった。
秋も深まり、寮の窓から見える木々は、すっかり色を変えていた。学院祭から続いた慌ただしい日々が、ようやく落ち着きを見せている。予算改革、噂、対立、そして和解。振り返れば、随分と長い道のりだった気がする。
「次は、何が待ってるんでしょうね」
放課後、隣を歩くリュカが、のんびりとした調子で言った。
「さあ。しばらくは、何もないといいけど」
「お前がそれ言うと、フラグにしか聞こえないな」
軽口を叩きながら歩く二人の足元に、色づいた落ち葉が音を立てて舞っていた。静かな秋の日々は、もうしばらく続きそうだった。
(次回「冬の便り」へ続く)




