第59話「里帰り」
夏の休暇が始まり、俺は半年ぶりに、辺境の屋敷へ帰ってきた。
馬車の窓から見えた景色は、記憶にあるものと少しも変わっていなかった。青々とした畑、遠くに霞む森、見慣れた屋敷の屋根。それでも、王都での日々を経た今、その景色の見え方は、以前とはどこか違って感じられた。
門をくぐると、待ち構えていたように、クラーラが駆け寄ってきた。
「ノア様! お帰りなさいませ」
「ただいま、クラーラ」
彼女は、俺の顔をまじまじと見つめてから、少し驚いたように言った。
「背、伸びましたね。それに、少し雰囲気も」
「そうかな」
「はい。前より、大人びて見えます」
その言葉に、俺は少し照れくさくなった。
その日の夕方、クラーラと共に帳簿を確認する時間を持った。彼女がこの半年、屋敷の経理を任されていたと聞いていたが、実際に見せてもらった帳面は、想像していた以上にきちんと整理されていた。
「すごいな、これ」
「ノア様の教えを、忘れないようにしてきただけです」
俺は、帳面の数字にそっと目を落とした。
――景色に薄く数字が重なる。
〈対象:半年間の屋敷経営/収支の推移:前年同期比で緩やかに改善継続/特筆事項:クラーラ独自の判断による小規模な経費見直しが複数箇所に反映されている/評価:任せた期間としては十分すぎる成果〉
「クラーラ、この経費の見直し、自分でやったの?」
「はい。ノア様がいらっしゃらない間、私が判断するしかなかったので……勝手なことをしたかもしれません」
「ううん、すごくいい判断ばかりだ」
クラーラは、ほっとしたように微笑んだ。それから、少し声を落として言った。
「ノア様。前に、お約束したこと、覚えていますか」
「約束?」
「いつか、ちゃんと教えてください、というお話です」
俺は、思わず言葉に詰まった。彼女がその話を忘れていないことは分かっていたが、こうして改めて向き合われると、答えに窮してしまう。
「……ごめん。まだ、今すぐには」
「大丈夫です。急かすつもりはありません。ただ、忘れていないことだけは、伝えておきたくて」
クラーラの声には、責めるような色は一切なかった。ただ、静かな真剣さだけがあった。
翌日、父の書斎を訪ねると、机の向こうで書類に目を通していた父が、顔を上げた。
「戻ったか」
「はい、父上」
「学院での様子は」
俺は、特待生食事問題のこと、エリーゼやリュカとのこと、学院祭の成果を、かいつまんで話した。父は、いつも通り多くを語らず、ただ静かに耳を傾けていた。
「学院祭の利益率、なかなかのものだな」
「クラーラに鍛えてもらった甲斐がありました」
「お前の目のつけどころは、変わらないらしい」
父の口調には、以前よりもさらに穏やかな響きがあった。
「今年の輪作は、順調ですか」
「ああ。三年目に入って、収穫も安定してきている。バルトルトが、また張り切っているよ」
その日の午後、屋敷の周りを歩いていると、見慣れた姿が声をかけてきた。
「坊ちゃん、お帰りなさい」
「ヴェルナー。元気そうで良かった」
「私は、いつも通りです」
ヴェルナーは、以前と変わらない、間の取り方の少ない口調でそう言った。それでも、その表情には、以前より少しだけ柔らかいものが宿っている気がした。
「坊ちゃんは、随分と大人びられましたね」
「そう見える?」
「ええ。少しだけ、私に似てきたかもしれません」
珍しい軽口に、俺は思わず笑った。
「あの、旅立ちの朝に言っていたこと、覚えてる。話せることが増えてるかもしれないって」
ヴェルナーは、一瞬、目を細めた。
「……そうですね。少しずつ、話せることも増えています。ただ、全部お話しするのは、もう少し先になりそうです」
「うん、待ってる」
その返事に、ヴェルナーは小さく頷いた。急かさない、というのは、この半年で俺なりに学んだことの一つだった。
数日後、マルクから届いた手紙には、王都でも携行食の評判が広がりつつあるとの近況が綴られていた。ゴドウィンからは、ダレン領での取引がさらに安定したという知らせが届いている。グスタフの村では、香草の栽培がさらに広がっているらしい。
短い帰省の日々は、あっという間に過ぎていった。学院へ戻る朝、クラーラが見送りに来てくれた。
「また、手紙、書きますね」
「うん、待ってる」
「次に帰ってくる時は、もっと大人になってるんでしょうね」
「そうかもね」
馬車が動き出す。屋敷と畑が、少しずつ遠ざかっていく。半年前とは違う手応えを胸に、俺はまた、王都へと向かった。
(次回「二年目の始まり」へ続く)




