第55話「歩み寄り」
学院祭まで、残り三日となった日の放課後だった。菓子材料店に立ち寄ると、店主が困った顔で俺を出迎えた。店の奥には、まだ包装も解かれていない材料の箱が、いくつも積まれている。
「実は、グレイフェンベルク家の方の注文、少し多すぎたみたいで……在庫が、余りそうなんです」
見栄のための大口注文が、そのまま裏目に出たらしい。仕入れた材料の一部が、使い切れずに残る見込みだという。
「向こうのクラスは、何と?」
「余った分は、そのまま買い取っていただく契約でして。ただ、予算がかなり厳しくなったとかで……あちらも、頭を抱えている様子でした」
店主の言葉に、俺は少し考え込んだ。あの日、廊下で見たギルベルトの落ちた肩を思い出す。
――景色に薄く数字が重なる。
〈対象:余剰在庫の材料/品質:問題なし、うちの出店でも十分使える水準/価格:仕入れ値であれば市場相場より割安/相手側の状況:資金繰りが逼迫、早期の現金化を望んでいる可能性が高い〉
「うちで、余った分を買い取れないか、聞いてもらえませんか」
店主が目を丸くした。
「よろしいんですか。あちらとは、色々あったと伺ってますが」
「材料は材料です。使えるなら、無駄にするよりいい」
その日の夜、店主を通じて話を持ちかけたところ、翌日には返事が届いた。「取引に応じる」という、ギルベルトからの短い一言だけが記された手紙だった。
放課後、材料の受け渡しのため、俺は指定された場所に向かった。そこには、ギルベルト本人が、一人で待っていた。取り巻きの姿はどこにもなかった。
「わざわざ本人が来るとは、思いませんでした」
「人任せにする話でもないと思ったので」
ギルベルトの声には、いつもの棘が薄れていた。それでも、まっすぐこちらを見る目には、まだ硬さが残っている。
「安く買い叩くつもりですか」
「市場相場で、お支払いします。足元を見るつもりはありません」
その言葉に、ギルベルトは意外そうな顔をした。
「なぜ、そこまで」
「困ってる時に買い叩かれたら、次から信用できなくなります。うちは、これからも王都で商売する側なので」
「ずいぶん、先のことまで考えるんですね」
「損得だけの話じゃないです。信用って、後から効いてくるものなので」
俺の言葉に、ギルベルトはしばらく黙っていた。それから、ふいに視線を逸らして言った。
「……助かります。正直、これで少し楽になります」
その一言は、これまでのどんな言葉よりも、素直に聞こえた。
材料を受け取り、代金を渡すと、ギルベルトは踵を返しかけて、一度だけ足を止めた。
「別に、あなたに借りを作ったつもりはありません」
「分かってます」
「ただ……次に会う時は、これまでのように振る舞うとは、限りません」
その言葉が、どういう意味なのか、俺にはまだ分からなかった。皮肉なのか、あるいは何か決意めいたものなのか。それでも、去っていく背中に、以前ほどの刺々しさがないことだけは、確かだった。
戻ってエリーゼに一部始終を話すと、彼女は少し驚いた顔をした。
「まさか、取引が成立するとは」
「向こうも、困ってたんだと思う」
「それにしても、市場相場でお支払いするなんて。買い叩けば、もっと安く済んだはずです」
「安く買い叩いたら、多分、あの人はもっと意固地になってた」
エリーゼは、少し考えるような顔をした。
「損得だけで考えたら、割に合わないかもしれませんね」
「かもしれない。でも、こういうのは、後で効いてくるものだと思う」
「ノア様は、本当に変わった方ですね。敵にすら、商売を持ちかけるなんて」
「敵じゃなくて、同じ学院祭を作る仲間、ってことにしておきます」
エリーゼが、小さく笑った。窓の外、学院祭前日の校庭には、いくつもの屋台の灯りが、静かに揺れていた。
「明日から、いよいよ本番ですね」
「うん。準備してきたもの、ちゃんと形にしよう」
エリーゼは大きく頷いた。その横顔には、これまでとは違う、晴れやかな覚悟のようなものが浮かんでいた。
(次回「学院祭、開幕」へ続く)




