第51話「令嬢の憂鬱」
商店街での交渉から数日、俺とエリーゼは学院祭の準備を淡々と進めていた。浮いた予算で仕入れる材料の質を上げ、試作の菓子を何度か焼いてもらい、味の調整を重ねる。ゲルトほどの腕はさすがにないが、学院の調理場を借りて焼いた試作品は、それなりに評判が良かった。それ自体は順調だったが、ある日を境に、エリーゼの様子が少しおかしくなった。
「エリーゼさん、聞いてます?」
「……すみません、何でしたか」
放課後の空き教室、見積もりの再確認をしていたはずが、彼女は何度も同じ箇所で手を止めていた。目の下には、薄っすらと隈が浮いている。いつもなら几帳面に整えられているはずの髪も、心なしか乱れていた。
「何か、あったんですか」
「別に、何も」
にべもない返事だったが、その声には、以前のような強さがなかった。俺は机の上に置かれた一通の手紙に、ふと目を留めた。エリーゼが慌てて隠そうとしたが、一瞬遅かった。
「シュタイン家の紋章、ですよね」
「……見ないでください」
言葉とは裏腹に、彼女はそれ以上、手紙を隠そうとはしなかった。むしろ、誰かに気づいてほしかったのかもしれない。俺は、少し迷ってから尋ねた。
「話したくなければ、いいんですけど」
エリーゼは長い沈黙の後、ぽつりぽつりと語り始めた。
「来月、面会の予定が入りました。中央の有力な家の、跡取り候補の方と」
「それって……」
「縁談の、下見のようなものです。私が、その方に相応しいかどうかを、見極める場」
淡々とした口調の中に、諦めに似た響きがあった。
「これまでも、こういう話はあったんですか」
「初めてではありません。ただ、今回は家の格が違いすぎて……断れば、シュタイン家の立場が悪くなるとも言われています」
「断ることは」
「私一人の意思では、どうにもなりません。シュタイン家にとって、意味のある繋がりですから」
その言い方には、諦めというより、既に何度も自分に言い聞かせてきたような、擦り切れた響きがあった。
俺は、机に置かれたままの手紙に目を落とした。宛名も差出人も、いかにも格式張った書式だった。
――景色に薄く数字が重なる。
〈対象:面会の通達書/文面上の性質:正式な婚姻交渉ではなく、あくまで「顔合わせ」段階/家同士の力関係:シュタイン家がやや弱い立場での申し入れである可能性/エリーゼ本人の意思確認の記載:一切なし〉
「これ、まだ決まった話じゃないみたいです」
「え?」
「顔合わせの段階、って書いてあります。それに、エリーゼさんの気持ちを確認する文言が、どこにもない」
エリーゼは、目を見開いてこちらを見た。
「そんなところまで、読み取れるんですか」
「文面の書き方って、意外と正直なので」
嘘は言っていなかった。ただ、そこに至る道筋は、鑑定を頼りにしている。
「顔合わせなら、まだ、決まったわけじゃないですよね」
「……そう、なんでしょうか」
エリーゼの声に、わずかな希望のようなものが混じった。
「決まってないなら、エリーゼさんがどう振る舞うかで、変わる部分もあるんじゃないですか。全部を受け入れるか、全部を拒むかの二択じゃなくて」
「振る舞い方、ですか」
「相手も、うちの家を選ぶかどうか、値踏みしてるはずです。だったら、こっちだって、値踏みし返していいはずだと思います」
俺の言葉に、エリーゼは少しの間、黙り込んだ。それから、初めて小さく笑った。
「値踏みし返す、なんて発想、考えたこともありませんでした」
「経済的には、割とありふれた考え方です」
「変わった方ですね、本当に」
その笑みには、これまでのどこか張り詰めた雰囲気とは違う、柔らかさがあった。
「話を聞いてくれて、ありがとうございます」
「大したことはできてません」
「いいえ。誰にも話せずにいたので、それだけで、随分違います」
エリーゼは、少し照れたように視線を落とした。
「クラスの誰かに話せば、すぐ噂になりますし。かといって、家の者に弱音を吐けば、また心配をかけるだけで……。エーレンフェスト様が、初めてでした。ちゃんと聞いてくださったのは」
「そんな、大層なことじゃ」
「大層なことですよ。少なくとも、私にとっては」
窓の外は、いつの間にか夕暮れに染まっていた。エリーゼは手紙を丁寧に畳み、鞄にしまった。
「明日からも、出店の準備、頑張りましょう」
「はい」
彼女の声には、先ほどまでとは違う、確かな芯が戻っていた。俺は、それを見届けながら、辺境で見てきたいくつもの顔を思い出していた。負債に苦しむ父、帳簿と向き合っていたクラーラ、水路の縁で頑固に構えていたグスタフ。誰もが、それぞれの重さを抱えて、それでも前を向こうとしていた。数字だけでは測れないものが、この王都にも、確かにあるみたいだった。
(次回「学院祭前夜」へ続く)




