第44話「決着」
検査が繰り上げで通ってから、十日ほど経った頃だった。屋敷では次の出荷の荷造りが順調に進み、久しぶりに落ち着いた日々が戻りつつあった。そんな中、マルクから、ダレン領の商業組合内の噂として、思わぬ話が届いた。
「あの異議を唱えた役職者、組合内で立場が悪くなっているそうです。ヘルマン商会との繋がりを、他の役員たちも薄々気づいていたみたいで」
一人だけが強引に異議を唱えた一件は、かえって組合内でヘルマン商会の関与を疑わせる形になったらしい。狙って仕掛けた一手が、そのまま自分たちの首を絞めることになったわけだ。
「向こうも、これ以上は分が悪いと分かってるはずです」
マルクの言葉を聞きながら、俺は妙な感慨を覚えた。価格でも、噂でも、制度でも、崩せなかったものが、最後は相手自身の焦りによって崩れていく。クラーラが横で、静かに息をついた。
「これで、本当に諦めてくれるといいんですけど」
「どうだろう。あの商会主が、簡単に引き下がるとは思えない」
その言葉が、まさか数日後に裏切られることになるとは、この時はまだ思ってもいなかった。
その数日後、屋敷の門前に、見覚えのある馬車が停まった。
「ヘルマン商会の方が、また」
ハンナの声に、屋敷の空気が一瞬張り詰めた。
応接間に通されたヘルマンは、以前と変わらぬ柔らかい物腰だったが、その奥にある抜け目のなさは、以前ほど鋭くは見えなかった。
「本日は、お詫びに参りました」
開口一番、ヘルマンはそう切り出した。
「回りくどい手を、いくつも使わせていただきました。うまくいかなかったのは、こちらの力不足です」
「わざわざ、そのために?」
父が静かに問うと、ヘルマンは苦笑いを浮かべた。
「それだけではありません。正直に申し上げれば、これ以上続ければ、うちの商会の評判にも関わります。潮時、というやつです」
俺は、その言葉に何か裏がないか、そっと視線を落とした。
――景色に薄く数字が重なる。
以前感じた、値踏みするような抜け目なさは、まだ完全には消えていない。それでも、今この場での言葉には、はっきりとした撤退の意思が見える。策を弄する余地は、もう自分たちの側にはないと、本人が理解している――そんな数字の並びだった。
「本気で、退くつもりですか」
俺が思わず尋ねると、ヘルマンは少し驚いたような顔をした。子供の口から出た問いに、意表を突かれたのかもしれない。
「坊ちゃんは、ずいぶんはっきり物を仰いますな」
「はい」
「ええ、本気です。正面から敵わないと分かったものに、いつまでも意地を張るほど、若くはありません」
ヘルマンはそう言って、深く頭を下げた。
「これまでのこと、水に流していただけるとは思っておりません。ただ、今後は、正々堂々とやらせていただきたい。それだけです」
「これまでの手管の中で、一番効いたものは何だったんですか」
俺の問いに、ヘルマンは一瞬、目を細めた。
「――村への高値、でしょうな。あれが通っていれば、話は違っていたはずです。信頼というものの重さを、正直、見誤っておりました」
その答えに、俺は少しだけ胸のつかえが下りる気がした。相手も、ただ闇雲に仕掛けていたわけではない。ちゃんと、こちらの積み重ねを、後になって理解していたのだ。
父はしばらく黙っていたが、やがて短く頷いた。
「商いに、敵う敵わないは付き物だ。今回のことは、こちらも忘れはしないが、根に持ち続けるつもりもない」
「感謝いたします」
ヘルマンが帰った後、屋敷にはしばらく、誰も言葉を発さない時間が流れた。
「終わったんですね、本当に」
クラーラがぽつりと呟いた。
「うん。長かった」
「村の一件から数えると、ずいぶんいろんなことがありました。値段、噂、組合……次から次へと」
クラーラの言葉に、俺は苦笑いした。振り返れば、確かに息をつく間もなかった。それでも、一つずつ乗り越えるたびに、周りの誰かの力を借りることを覚えた気がする。
俺は窓の外に目をやった。刈り取られた畑の向こうに、静かな夕暮れが広がっている。ヘルマン商会という影は、これで一旦、背景に退いた。だが、この土地での商いが、これからも誰かとぶつかり、誰かと手を取り合いながら続いていくことに、変わりはない。
「父上、俺、少し疲れました」
素直にそう漏らすと、父が珍しく口の端を上げた。
「よくやった。今日くらいは、ゆっくり休め」
その一言に、これまでの数か月の重みが、少しだけ軽くなった気がした。母が扉の隙間から様子を窺い、俺の顔を見て安堵したように微笑む。
「今夜は、少し早めに休みなさいね」
「はい、母上」
いつも通りの、なんでもないやり取りが、今はやけに温かく感じられた。
(次回「旅立ちの日」へ続く)




