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万物鑑定士、辺境で経済を制す  作者: 春野ケイ


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第40話「実りの時」

ダレン領の噂が収まってから、十日ほど経った朝だった。屋敷の外に出ると、風に混じって麦の匂いが漂ってくる。


「今日から、刈り入れですね」


クラーラが空を見上げて言った。雲一つない、上々の天気だった。


支度は数日前から進んでいた。フリーダとトビアスは加工場の方で、刈り取った麦を受け入れる準備に追われ、ゲルトも保存食との兼ね合いで、人手の割り振りを何度も見直していたらしい。


「今年は豆の分もありますし、正直、猫の手も借りたいくらいでしたよ」


出がけに顔を合わせたゲルトが、そう言って苦笑いした。以前なら愚痴で終わっていたところだが、今は口ぶりに張りがある。


北の畑に着くと、バルトルトが村の男衆に指示を飛ばしていた。鎌を手にした人々が並び、麦の穂が波のように揺れている。三年計画の一年目、その締めくくりの日だった。


「ノア様、いらしたんですか」


バルトルトが振り返り、日に焼けた顔をほころばせた。


「様子を見に来ました。豆の方は、もう終わったんですよね」


「ええ、上々でしたよ。おかげさまで」


俺は畑の端に立ち、色づいた麦の穂に目を落とした。


――景色に薄く数字が重なる。


〈収穫見込み:平年比約115%/土壌養分:一年前と比べて明確な回復傾向/来年以降の輪作継続:問題なく可能〉


「思ったより、良さそうです」


「輪作なんて、正直半信半疑でしたがね。土が変われば、作物も変わる。それを目の前で見せられちゃ、信じないわけにはいきません」


バルトルトはそう言って、また鎌を手に畑へ戻っていった。その背中に、迷いはもう見えなかった。


クラーラが隣で、帳面に何やら書きつけている。


「豆の分と合わせると、去年の見込みより、かなり上振れしそうですね」


「ゲルトの携行食にも、余裕を持って回せそう」


「マルクさんも、きっと喜びます」


日が高くなる頃、屋敷から差し入れが届いた。母が使用人たちと共に、水と軽食を運ばせてきたのだ。母自身も畑まで足を運び、汗をぬぐう村の者たちに一人ずつ声をかけて回っている。


「相変わらず、細かいところまで気にかける方ですね」


ヴェルナーが、荷を運びながらぽつりと言った。彼も護衛として同行していたが、今日ばかりは荷運びにも駆り出されている。


「母上らしいよ」


「坊ちゃんも、少し似ておられるように思います」


珍しく軽口めいた言葉に、俺は苦笑した。


夕方、日が傾く頃には刈り入れが一段落した。積み上げられた麦束を眺めながら、バルトルトが満足げに頷く。


「三年計画も、まずは一年目、上出来です」


屋敷に戻り、父に報告すると、書き付けにざっと目を通してから、短く言った。


「よくやった」


たった一言だったが、以前ならこの手の報告は形式的に受け取るだけだったはずだ。今は違う。父の目には、はっきりとした満足があった。


「来年、再来年と、まだ続きますから」


「ああ。気を抜くな」


言葉は素っ気ないが、それが今の父らしいやり取りだった。俺は少し勇気を出して、続けた。


「来年は、境界の休耕地の方も、少しだけ広げてみようと思ってます。今年の試し掘りが、思ったより順調だったので」


「バルトルトの手が回るのか」


「村の若い衆も、手伝ってくれるみたいです。急がず、様子を見ながらにします」


父はしばらく黙って俺を見ていたが、やがて短く頷いた。


「好きにしろ。無理はするな」


以前なら、境界地の話はそれだけで慎重な顔をされたものだった。今は、判断そのものを任せてくれている。積み重ねてきたものの重さを、こういう瞬間にふと感じる。


その夜、屋敷の台所では、ゲルトが刈り入れの労いにと、干し肉と豆を使った簡単な煮込みを振る舞った。使用人たちが代わる代わる腹を満たし、いつもより賑やかな声が響く。母も顔を出し、フリーダやトビアスの働きぶりを一人ずつ褒めて回っていた。


「今年は、去年よりずっといい年になりましたね」


母がそう言って微笑むと、ハンナが横で頷いた。


「旦那様も、少しずつ表情が柔らかくなられました」


「あら、内緒にしておいてあげて。本人は気づいていないでしょうから」


小さな笑いが起きる。屋敷の空気は、この半年ほどで、確かに変わってきていた。


夜、屋敷の一室でクラーラと帳簿を整理していると、彼女がふと手を止めた。


「ヘルマン商会、あれから何も動きがありませんね」


「そうだね」


「静かすぎるのが、少し気になります」


俺も、同じことを考えていた。村、マルク、専属提案、噂――四つの手を全部外されて、大人しく引き下がるような相手だとは思えない。だが今夜だけは、その懸念を脇に置いておくことにした。


「今日くらいは、素直に喜んでおこう」


「そうですね」


クラーラが小さく笑った。窓の外には、刈り取られた麦畑が月明かりに照らされて広がっている。実りの季節は、まだ終わらない。この静けさの先に何が待っているのか、それは今はまだ、誰にも分からなかった。


(次回「根回し」へ続く)


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