第39話「ダレン領の噂」
ヘルマン商会主が屋敷を訪ねてきてから、五日ほど経った日の夕方だった。
「ノア様、ゴドウィンさんが……何だか、いつもと様子が違います」
クラーラに呼ばれて玄関に出ると、ゴドウィンが立っていた。いつもの軽妙な愛想はどこかに置いてきたような、硬い表情だった。
「急にすみません。折り入って、お耳に入れておきたいことがありまして」
応接間に通すと、ゴドウィンは椅子に座るなり、ため息をひとつついた。
「ダレン領で、妙な噂が流れてるんです。エーレンフェスト領の干し肉は、実は質が落ちてる、傷んだものが混じっていた、って」
俺は思わずクラーラと顔を見合わせた。品質には、ゲルトたちがずっと気を配ってきたはずだ。
「そんな話、聞いたこともありません」
「ええ、私も心当たりはないんです。でも、こういう噂ってのは、本当かどうかより先に広まっちまう。うちの取引先の何人かも、それとなく聞いてきましてね。『あそこの品、本当に大丈夫なのか』って」
ゴドウィンの声には、隠しきれない焦りがにじんでいた。彼にとっても、扱っている品の評判に関わる話だ。
俺はテーブルの上、ゴドウィンが持ってきた注文控えの束に目を落とした。上背が足りず、少し椅子の上で背筋を伸ばす。
――景色に薄く数字が重なる。
【鑑定】対象:ダレン領で流れている品質不良の噂/事実関係:根拠となる苦情記録・返品記録は一切なし、内容は誇張または全くの捏造/発生源の推測:時期・広まり方から見て、ヘルマン商会の関係筋からの発信である可能性が高い(確証には至らない)
「根も葉もない話だと思う。苦情の記録も、返品の記録も、うちには一つもない」
「私もそう思いたいんですが……噂ってのは、否定して回るほど、かえって広まったりもするんですよ」
たしかに、必死に打ち消そうとすればするほど、逆に何か隠しているように見えてしまうこともある。だったら、違うやり方をするしかない。
「否定するんじゃなくて、見せればいいんじゃないかな」
「見せる、というと」
「実際の作業場を、見てもらう。マルクさんの村でも、うちの品はずっと使われてる。そういう、実際に付き合いのある人たちの声を、集めてもらうのは?」
クラーラが横から続けた。
「ゲルトさんたちの仕事ぶりを直接見てもらえば、噂なんて吹き飛ぶと思います。それに、村の方々やマルクさんに一言添えてもらえれば、こちらの言葉より信じてもらえるかと」
ゴドウィンの表情に、少しだけ光が戻った。
「それは……いい手かもしれません。噂を追いかけるより、こっちの足元を見せる方が早い」
俺たちはその足で、父にも報告した。父は話を聞くと、短く言った。
「噂の出どころを探るのは、後でいい。まずは、疑いを晴らすことが先だ」
「はい」
「うちの品に、後ろめたいことは何もない。堂々と見せればいい」
言葉数は少なかったが、迷いのない声だった。
数日後、ゴドウィンが加工場を案内した数人の商人たちから、疑いは晴れたとの知らせが届いた。実際の作業を目にし、マルクや村の者たちの話も聞いて、噂は根拠のないものだったと納得したらしい。
「今回は、なんとか収まりましたが」
ゴドウィンが帰り際、ぽつりと言った。
「向こうも、次はもっと手の込んだことをしてくるかもしれません。私も、気をつけておきます」
窓の外、麦畑はすっかり色づき、収穫の時期が近づいていた。噂という見えない攻撃をひとつ払っても、ヘルマン商会という影は、まだ消えていない。それでも今は、目の前にある実りを守ることの方が、俺には大事に思えた。
「そろそろ、麦の刈り入れだね」
「三年計画の一年目、無事に終わりそうですね」
クラーラの声に、俺は頷いた。次の一手がどこから来るにしても、今はこの実りを、きちんと形にすることが先だ。
(次回「実りの時」へ続く)




