第38話「次の一手」
マルクからの返事が届いてから、十日ほど経った頃だった。
屋敷の門前に、見慣れない立派な馬車が停まった。取り次いだハンナが、少し緊張した面持ちで告げに来る。
「ヘルマン商会の方が、ご挨拶にと」
俺は思わずクラーラと顔を見合わせた。まさか、本人が来るとは思っていなかった。
応接間に通されたのは、恰幅のいい初老の男だった。物腰は柔らかいが、こちらを値踏みするような目の動きが、隅々まで抜け目ない。
「お初にお目にかかります。ヘルマン商会を預かっております、ヘルマンと申します」
深々と頭を下げる仕草に、嫌味はない。手土産の茶葉の箱を差し出しながら、当たり障りのない世間話を続ける。俺は父の隣で、椅子から少し足が浮いたまま、大人ふたりのやり取りを見上げていた。
「実は、折り入ってお話がございまして」
世間話が一区切りついたところで、ヘルマンはそう切り出した。
「御領の干し肉、噂には聞いておりました。品質も安定していて、なかなかのものだと。つきましては――うちと、専属の取引をお願いできないかと思いまして」
専属。その言葉に、父の眉がわずかに動いた。
「今扱っておられる商人の方々には、それぞれ相応の礼をいたします。ただ、量をまとめてうちが一手に引き受ける形になれば、御領としても値の交渉が楽になりましょう。王都の伝手にも顔が利きますし、悪い話ではないと思いますが」
なめらかな言い回しだった。だが俺は、書類も出ていないその言葉の中に、薄く数字が重なるのを感じた。
――景色に薄く数字が重なる。
【鑑定】対象:ヘルマン商会主の専属取引提案/実質的な狙い:御領の干し肉流通を一手に握り、マルク・ゴドウィンを事実上排除すること/長期的な影響:価格決定権が完全にヘルマン商会側に移り、他の取引先との関係が絶たれる
まとめて引き受ける、というのは聞こえがいい。でも中身は、うちの品物の出口を全部、一つの商会に握らせろということだ。前世でも、こういう「まとめて」の話には、大抵裏があった。
俺は父の袖を、そっと引いた。目が合うと、小さく首を横に振る。父は、何も聞かずに頷いた。
「ありがたい話だが、断らせていただく」
父の返答は短かった。
「うちは、今の取引先を大事にしたい。値の良し悪しだけで、付き合う相手を変えるつもりはない」
ヘルマンの笑みが、ほんの一瞬だけ固まった。だがすぐに、また柔らかい表情に戻る。
「そうですか。もったいない話だと思いますが、無理にとは申しません」
そう言って立ち上がりかけたヘルマンは、扉の前でふと足を止めた。
「ただ――今のままの形が、いつまでも続くとは限りませんよ。商いというのは、そういうものです」
言い残して、ヘルマンは馬車に乗り込んでいった。柔らかな物言いのまま、含みだけを置いていく。ああいう去り際は、レオン様と少し似ている気がした。ただし、あちらには少なくとも筋が通っていた。
「ノア様、旦那様は、本当にこれでよろしかったんでしょうか」
クラーラが不安そうに、俺の顔を覗き込んだ。
「今回は、はっきり断れた。それだけで十分だ」
俺はそう答えたが、内心では別のことを考えていた。村への高値、マルクへの引き抜き、そして今度は本人による専属提案。手を変え続けているということは、それだけ本気で、うちの流通に食い込みたいということだ。
「マルクさんやゴドウィンさんにも、伝えておいた方がいいかもしれません」
「うん。特にゴドウィンさんの方は、まだ何も言ってきてないから、少し心配だ」
窓の外、馬車の音が遠ざかっていくのを聞きながら、俺は胸の中でざわつくものを感じていた。相手はようやく、正面から顔を見せた。次はどこから来るのか――それが、今はまだ分からない。
(次回「ダレン領の噂」へ続く)




