第37話「値段の向こう側」
ヘルマン商会からの書状騒動から、五日ほど経った朝のことだった。
マルクが屋敷を訪ねてきた。いつもの人懐こい表情はどこか硬く、俺は挨拶もそこそこに切り出した。
「マルクさん、何かありました?」
「実は……ヘルマン商会から、直接声をかけられまして」
マルクの話によると、ヘルマン商会の使いが数日前に彼のもとを訪れ、干し肉の卸値を今の契約よりもさらに安くする条件を提示してきたという。量は今まで通りでいい、契約を切り替えるだけでいいと持ちかけられたらしい。
「正直、心が動かなかったと言えば嘘になります。ただ、義理を欠くようで……こうしてご相談に上がりました」
律儀な人だ。だからこそ、こちらも誠実に答えたかった。
マルクが差し出した条件の書き付けを覗き込もうとして、俺は少し爪先立ちになった。テーブルの上の紙一枚を見るのにも、まだ背が足りない。
――景色に薄く数字が重なる。
【鑑定】対象:ヘルマン商会の卸値引き下げ提示/資金的な持続可能性:低い(採算割れに近い水準、長期の継続は困難)/推測される狙い:既存の供給網からマルクを引き剥がし、村とエーレンフェスト家双方の信用を同時に崩すこと
「マルクさん、これ、たぶん長くは続かない値段です」
「……そうなんですか?」
「うん。今だけ安くして、マルクさんがうちを離れたら、後で値を戻すつもりだと思う」
前世で似たようなやり方を、何度も見てきた。競合を引き剥がすための捨て値の攻勢。長続きしないのは数字を見れば分かる。ただ、それを説明するだけでは、マルクの不安は消えないだろう。
「値段で張り合うのは、正直きついかもしれません」
俺がそう言うと、隣で話を聞いていたクラーラが口を開いた。
「値段じゃなくて、条件で応えるのはどうでしょう。マルクさんへの前払い分を、少し早めに回すとか」
「それは……」
マルクが目を見開いた。
「うちも、去年よりは少し余裕があります。検品の基準も、ただ厳しくするだけじゃなくて、マルクさんが困った時は融通する、ってはっきり約束してもいいと思う」
俺の言葉に、クラーラが小さく頷いた。値段では張り合えなくても、この一年で積み重ねてきたものなら、渡せるものがある。
父にも報告すると、書き付けを一読して短く言った。
「値段で殴り合っても、体力のある方が勝つだけだ。うちにその体力はない」
「はい」
「マルクとの間にあるものを、金額で測ろうとするな。それはお前たちの方が分かっているはずだ」
言葉少なだったが、迷いのない口調だった。俺とクラーラは顔を見合わせ、頷き合った。
数日後、マルクから返事が届いた。
「前払いの件、それとうちの検品基準のこと、丁寧に説明してもらえて助かりました。正直、値段だけなら向こうの方が魅力的です。でも、困った時に融通してくれるかどうかは、値段には出てきませんから」
マルクはそう言って、ヘルマン商会の誘いを断ったことを伝えてきた。
「それでも、あちらは諦めないでしょうね」
クラーラの言葉に、俺は頷くしかなかった。村の香草、マルクの卸、ヘルマン商会は狙いを変えながら、じわじわと外堀を埋めるように迫ってきている。値段の勝負を避け続けられるうちはいいが、いつか本丸――ヘルマン商会自身が表に出てくる日も、そう遠くないかもしれない。
窓の外では、麦の穂がすっかり色づき始めていた。季節が動くように、相手の出方も、少しずつ形を変えていく。
「次は、向こうも直接動いてくるかもしれない」
「その時は、その時でまた考えましょう」
クラーラの言葉に、俺は小さく笑った。今のところは、それでいい。
(次回「次の一手」へ続く)




