第36話「ヘルマン商会」
「ノア様、これを」
朝一番、クラーラが少し慌てた様子で書状を持ってきた。差出人は、グスタフだった。走り書きに近い、いつもよりぶっきらぼうな文字が並んでいる。
『境界の村に、ダレン領の商人が来た。香草を、うちより高い値で買い取ると言っている。名はヘルマン商会と名乗っていた』
短い一文だったが、俺は思わず息を呑んだ。予想していたよりも早く、相手が動き出したらしい。マルクから名前を聞いたのが、つい先日のことだった。
「グスタフさん、断ってはくれてないんですか」
「まだ、返事は保留しているみたいです。悪い話でもないですから、村としては迷って当然かと」
クラーラの言う通りだった。うちより高い値がつくなら、村にとっては純粋に得な話だ。ここで感情的に引き止めても、意味がない。
俺は書状に視線を落とした。
――景色に薄く数字が重なる。
〈対象:ヘルマン商会の買取提示条件/提示価格:相場比約115%/契約形態:単発買取のみ、継続契約の言及なし/推測される狙い:村との関係を切り崩し、既存の供給網を混乱させること〉
「単発の買取なんだ、これ」
「継続じゃない、ということですか」
「うん。今年だけ高く買って、来年以降のことは何も約束してない」
つまり、村にとって本当に得なのは今年一回きりで、その後は保証がない。うちとの取引を壊した後、値を戻されればどうなるか。相手の狙いは、香草そのものより、村との信頼関係を崩すことにあるように思えた。
「これ、グスタフさんに伝えないと」
「私が手紙を書きます。でも、事実を伝えるだけじゃ、足りない気もします」
クラーラの言う通りだった。ただ「継続の保証がない」と指摘するだけでは、こちらの都合のいい脅し文句に聞こえかねない。
「うちからも、何か形にして返そうか。値段じゃなくて、別の形で」
しばらく考えて、俺はある案を思いついた。
「香草の栽培そのものを、うちが手伝う形にできないかな。土地の相性を鑑定して、収量が上がる工夫を一緒に考える。値段の勝負じゃなくて、長く付き合う理由を作る」
「それなら、ヘルマン商会の単発の値段には、簡単に負けません」
クラーラの目に、少し光が戻った。
俺たちはその足で、父にも報告した。父は書状を一読すると、短く言った。
「値段勝負に持ち込まれたら、うちに分は薄い。長く続ける理由を作る、というのは悪くない考えだ」
「ありがとうございます」
「ただし、村の判断を急かすな。焦って押し付ければ、それこそ相手の思う壺だ」
父の言葉に、俺は頷いた。急がず、村自身が選んだと思える形にすること。それが大事なのだと、改めて言われて気づいた。前世でも、焦って囲い込もうとした取引先ほど、後になって離れていくことが多かった。
その日のうちに、クラーラが手紙をまとめ、俺も畑の知見を添えた覚え書きを一緒に送った。数日後、グスタフから短い返事が届いた。
『高い値には惹かれたが、来年のことを考えると、こっちの方が話が早い。今まで通り、よろしく頼む』
素っ気ない文面だったが、俺は思わず安堵の息をついた。ひとまず、村との関係は守られた。
「今回は、なんとかなったけど」
「相手は、これで諦めるとは思えません」
クラーラの言葉に、俺も頷くしかなかった。ヘルマン商会という名前が、もう単なる噂ではなく、実際に動く相手として姿を現した。これから先、こういう小さな揺さぶりが、何度も続くかもしれない。
「父上にも、今回の顛末を伝えておこう」
「はい。次に何を仕掛けてくるか、予測はできませんけど……備えておくに越したことはないです」
窓の外では、豆畑の緑が、いつの間にか麦の穂と入れ替わり始めていた。季節は着実に進んでいる。相手の出方も、きっとこれからさらに変わっていくのだろう。
(次回「値段の向こう側」へ続く)




