第35話「旅路の携行食」
マルクが屋敷を訪れたのは、携行食の試作から数日後のことだった。屋敷の門をくぐる姿は、いつも通り腰が低い。
「香草の件でお伺いしたついでに、と思ったんですが……これは、また新しいものを作られたんですね」
差し出された一切れを、マルクは興味深そうに眺めてから口に運んだ。しばらく黙って味わい、それから目を見開いた。
「これは……日持ちもしそうですし、腹持ちも良さそうだ。荷が軽くて済むのも、旅の商人には嬉しい話です」
「マルクさんのところでも、扱ってもらえそうですか」
「ぜひ。私自身、隣領を渡り歩く時に、こういうものが欲しいと思っていました」
俺は横で、携行食の塊に視線を落とした。
――景色に薄く数字が重なる。
〈対象:豆と干し肉の携行食(試作品)/推定市場価格:一個あたり銅貨8枚前後/想定需要:旅商人・行商・遠征職人向けに堅調/量産化の際の課題:干し肉と豆の仕入れ量の同時確保〉
「量産するなら、豆と干し肉、両方の仕入れを増やさないといけないかも」
「豆の方は、境界の村でも育てられるかもしれませんね。グスタフさんに聞いてみましょうか」
クラーラの提案に、俺は頷いた。水路の縁から始まった村との繋がりが、また新しい形で広がっていきそうだった。香草に続いて豆まで頼ることになれば、村にとっても新しい実入りになるはずだ。
「グスタフさんなら、断らないと思いますよ。前払いの件も、村の若い衆に評判が良かったみたいですし」
マルクがそう付け加えた。前回の交渉の成果が、こんな形でも生きているらしい。
マルクが帰り支度を始めた頃、クラーラがふと切り出した。
「マルクさん、少し伺いたいことが。ダレン領の商家で、最近うちのことを快く思っていない方に、心当たりはありませんか」
マルクの表情が、わずかに曇った。
「……実は、ゴドウィン殿からも似たような話を聞いています。商会の一つが、最近のうちとの取引を巡って、良い顔をしていないと」
「商会の名前は」
「ヘルマン商会、という名だったかと。以前は、ダレン領での干し肉の仕入れをほぼ独占していたそうです」
その名前に、俺は思わずクラーラと顔を見合わせた。ゴドウィンとの取引が始まったことで、そのヘルマン商会が扱う量が減った、ということは十分考えられる。
「規模は、どのくらいの商会なんですか」
「ダレン領内では中堅どころですが、古くから続いていて、顔が広いと聞きます。だからこそ、こういう噂も広まりやすいのかもしれません」
マルクの言葉には、単なる伝聞以上の重みがあった。商人同士の繋がりの中で、それなりに耳に入ってくる話なのだろう。
「証拠があるわけではありません。あくまで、噂の範囲です」
マルクはそう付け加えたが、その言葉には、確信に近いものが滲んでいるようにも聞こえた。
「教えてくれて、ありがとうございます」
「いえ。こちらとしても、商売敵の動きは無関係ではありませんから」
マルクが帰った後、俺とクラーラは屋敷の一室で、その名前について話し合った。
「ヘルマン商会か……」
「レオン様に届いた訴えの差出人と、同じかどうかは分かりませんけど」
「でも、線としては繋がる」
俺は頭の中で、これまでの出来事を整理し直した。急成長を疑われた巡察、匿名の訴え、そして今度は商売敵の存在。一つ一つは別々に見えていたものが、少しずつ輪郭を持ち始めている。
「父上に、報告しておこうか」
「そうですね。何かあってからでは遅いので」
窓の外は、もうすっかり日が傾いていた。携行食という小さな成功の裏で、見えない敵の輪郭が、少しずつ形になり始めていた。
前世でも、業界の中でシェアを奪えば、必ずどこかで恨みを買う。分かっていたつもりでも、実際にその名前を耳にすると、思っていた以上に胸がざわついた。相手が誰であれ、正面から向き合わなければならない日が、遠くないうちに来るような気がした。
(次回「ヘルマン商会」へ続く)




