第34話「豆の恩返し」
水はけの溝を掘ってから、二十日ほど経った。畑の端の区画も、ようやく他と変わらない緑を取り戻しつつあった。あの時の対応が正しかったのだと分かって、俺は内心ほっとしていた。
「思ったより早く直りましたね」
クラーラと連れ立って畑に行くと、バルトルトが豆畑の前で腕を組んでいた。表情は相変わらず険しいが、その険しさの中に、どこか満足げな色も見える。
「坊ちゃん、いいところに。豆が、もう食べ頃なんです」
「もう?」
「豆は麦より育ちが早いですからな。今年は特に、生育が良かった」
俺は端の区画にも目を向けた。溝を掘って以来、様子を見に来るのは久しぶりだった。
――視線を落とすと、いつもの感覚が来る。
〈対象:輪作区画D(排水対策済み)/土壌水分:適正範囲/生育状況:他区画との差はほぼ解消〉
「こっちも、ちゃんと追いついてる」
「溝一本で、随分違うもんです。坊ちゃんの見立て通りでしたな」
バルトルトの言葉に、俺は少し誇らしい気分になった。小さな手当てが、ちゃんと結果に繋がっている。
言われてみれば、畑一面の豆の莢が、ふっくらと膨らんでいる。俺は屈んで、一房手に取ってみた。
――景色に薄く数字が重なる。
〈対象:輪作区画の豆(収穫適期)/収穫量見込み:平年比約120%/用途適性:食用・飼料用ともに良好/市場価値:干し肉に次ぐ副産物として活用余地あり〉
「量、思ったより多いかも。食べる分以外にも、使い道がありそう」
「使い道、ですか」
クラーラが首をかしげる。俺は少し考えてから続けた。
「干し肉と一緒に、豆の加工品も作れないかな。ゲルトなら、何か思いつくかもしれない」
その足で、屋敷の作業場に向かった。事情を話すと、ゲルトはしばらく考え込んでから、思いがけないことを言った。
「豆を潰して干し肉と一緒に煮詰めれば、日持ちのする携行食になる。旅の商人や、遠出する職人に売れるかもしれません」
「それ、いいかも」
「試作してみましょう。フリーダ、トビアス、手を貸してくれ」
二人はすぐに支度を始めた。豆を茹でて潰し、香草も少し加えて、干し肉と練り合わせる。フリーダが配合を細かく調整し、トビアスが火加減を見る。この一年で、二人ともすっかり手際が良くなっていた。しばらくすると、香ばしい匂いが作業場に満ちた。
「味見してみます?」
差し出された一切れを口にすると、思っていたより滑らかで、噛むたびに旨味が広がった。干し肉だけよりも食べやすく、腹持ちも良さそうだった。
「これは、いけますね」
クラーラも一口食べて、目を輝かせた。
「保存も利くし、荷物にもかさばらない。旅の携行食として、うちの新しい商品になるかもしれません」
「値段はどのくらいで出せそうですか」
さっそく数字の話に切り替わるあたりが、クラーラらしかった。俺も頭の中で、材料費と手間を大まかに計算してみる。
「マルクさんやゴドウィンさんにも、見てもらおうか」
俺がそう言うと、ゲルトが少し照れくさそうに頷いた。
「豆一つで、こんな広がりが出るとは思いませんでしたよ」
その言葉に、俺は去年のことを思い出していた。誰も見向きもしなかった痩せた畑に、まず豆を植えることから始まった。土を休ませるための地味な一手だったはずが、こうして新しい商品の種にまで育っている。
畑からの帰り道、バルトルトが遠くの豆畑を眺めながら、ぽつりと言った。
「土を助けるために植えた豆が、今度はこっちを助けてくれる。まあ、そういうもんですかね、農業ってのは」
その言葉が、妙に胸に残った。前世で経営再建に関わっていた頃も、地味な一手が思わぬところで実を結ぶことは何度もあった。今回もまた、そのひとつだったのかもしれない。
クラーラが隣で、帳簿の隅に何やらメモを取っていた。
「新しい商品名、考えておきますね」
「もう気が早いよ」
「善は急げです」
そう言って笑う彼女の横顔を見ながら、俺はこの一年の積み重ねを、また一つ実感していた。
(次回「旅路の携行食」へ続く)




