第33話「麦畑の芽吹き」
レオンが去ってから、半月ほど経った。屋敷の空気はすっかり普段通りに戻り、俺たちはようやく本来の仕事に集中できるようになっていた。窓の外の景色も、日ごとに緑が濃くなっている。
「そろそろ、麦畑の様子を見に行きませんか」
クラーラにそう誘われて、俺は頷いた。小麦畑の輪作を始めてから、もうすぐ一年になる。あの頃は、豆一つ植えるにも一悶着あったことを思い出すと、少し感慨深い。
ヴェルナーも同行を申し出て、三人で北の畑に向かった。
北の畑に着くと、バルトルトが土をいじりながらこちらに気づいた。
「坊ちゃん、ちょうどいいところに。見てやってください」
畑の一画には、青々とした豆の芽が並んでいた。去年、養分の低下した区画に先立って植えた豆だ。土を休ませつつ、次の作付けに向けて地力を回復させる狙いだった。
俺は屈み込んで、土に手を触れた。
――景色に薄く数字が重なる。豆畑の土に、意外な情報が浮かぶ。
〈対象:輪作区画A(豆植付け済み)/土壌養分:回復傾向、当初想定より速い/生育状況:良好、根の張りが平年より強い〉
「バルトルト、この区画、思ってたより回復早いかも」
「へえ、そりゃ豆が仕事してる証ですな。長年やってきた勘とも合いますよ」
老農夫は満足げに頷いた。俺の鑑定と、彼の長年の経験が同じ方向を指しているのは、なんだか嬉しかった。
隣で畑を眺めていたヴェルナーが、珍しく感心したような声を出した。
「こうして見ると、剣より鍬の方が、よほど手強い相手のようですね」
「ヴェルナーがそんなこと言うの、意外」
「私も、畑仕事の経験がないわけではありません。家柄の話をする前は、それなりに土に触れて育ちましたから」
さらりと零れた一言に、俺は少し驚いた。彼の過去について、こんな形で触れられることは珍しかった。
「一方で、こっちは少し気になる区画がありまして」
バルトルトが案内した先は、畑の端に近い一角だった。他の場所より、心なしか色が薄い。
――再び視線を落とす。
〈対象:輪作区画D(端の一角)/土壌養分:平年並み/懸念:水はけがやや悪く、根が浅い箇所あり〉
「水はけが、少し悪いみたいです」
「ああ、そこは元々、水が溜まりやすい場所でしてな。去年までは気づかなかったが、確かに他より育ちが遅い」
「浅く溝を掘って、水を逃がすようにしたら変わるかも」
「なるほど、それなら人手も大してかかりませんな。明日にでもやってみましょう」
小さな問題ではあったが、その場で手を打てるのは悪くない気分だった。畑仕事は、干し肉や商取引と違って、結果が出るまで時間がかかる。それでも、こうして一つずつ手を入れていけば、確実に良くなっていく実感があった。
畑を一通り見終えて、俺たちは境界に近い休耕地にも足を延ばした。ここでは、区画の端だけを試験的に耕す準備が始まっていた。
「こっちは、まだ土を起こしたばかりですね」
クラーラが言う通り、掘り返されたばかりの土は黒々としていた。バルトルトの息子や、村の若い衆も何人か手伝いに来ているらしい。土を起こす鍬の音が、あちこちから聞こえてくる。
「今年は様子見です。うまくいけば、来年から範囲を広げましょう」
バルトルトの言葉に、俺は頷いた。焦らず、少しずつ。この一年で学んだことの一つだった。
帰り道、クラーラがふと呟いた。
「一年前は、こんな畑、見捨てられかけていたんですよね」
「うん。豆一つ植えるのも、随分渋られた」
「今は、村の人まで手伝いに来てくれる。……変わるものですね」
その言葉に、俺も同じことを思っていた。数字の上での改善だけでなく、こうして畑に芽が出て、人が集まってくる様子を見ると、積み上げてきたものの手触りを、初めて実感できる気がした。
道の途中、ロルフとダニエルが道具を担いで歩いてくるのとすれ違った。境界の水路の見回りの帰りらしい。
「坊ちゃん、畑の様子はどうでした」
「思ったより、いい感じ」
「そりゃよかった。あの水路のおかげで畑まで潤ってるなら、俺たちの仕事も無駄じゃなかったってことです」
ロルフが珍しく軽口めいたことを言い、隣のダニエルも小さく笑った。水路の仕事と、畑の再生と、村との縁と。一つ一つは別々に始まったことが、いつの間にか一本の線で繋がっている気がした。
(次回「豆の恩返し」へ続く)




