第32話「巡察使の去り際」
精査最終日の朝、レオンは荷物をまとめながら、最後の書類に目を通していた。屋敷の空気は、この一月ですっかり見慣れた緊張感を保ったままだったが、どこか終わりの気配も混じっていた。
「報告書の写しです。中央には、こちらの内容で提出します」
差し出された紙を、父が受け取る。俺はその横から、そっと視線を落とした。
――景色に薄く数字が重なる。
【鑑定】
対象:巡察使報告書(写し)
評価内容:財政運営は健全、急激な改善の背景に不正の痕跡なし
特記事項:匿名の訴えについては「事実無根」と明記、正式に取り下げ扱い
総評:継続して注視すべき領地(要観察)、ただし現時点で問題領地には該当しない
「要観察、ですか」
思わず口に出してしまった。レオンがこちらを見る。
「悪い意味ではありません。急成長した領地は、今後も同じ速度で伸びるとは限らない。良くも悪くも、目を離せないというだけの話です」
「……なるほど」
「それに、正直に申し上げれば」
レオンは荷造りの手を止めて、珍しく言葉を選ぶような間を置いた。
「これほど筋の通った運営を見たのは、久しぶりです。辺境の領地は、大抵どこかに無理をした跡が残っている。ここには、それがほとんど見当たらなかった」
父が短く頭を下げる。
「お褒めいただき、光栄です」
「褒めているわけでは。ただの事実です」
素っ気ない言い方だったが、それが彼なりの誠実さだということは、この一月でなんとなく分かるようになっていた。
隣で控えていたクラーラが、小さく息をつくのが聞こえた。この一月、誰よりも神経をすり減らしていたのは、間違いなく彼女だった。
馬車に乗り込む直前、レオンはふと足を止めて、俺の方を向いた。
「坊っちゃん」
「はい」
「その『勘』とやらは、大事にした方がいい。ただし、使い方を間違えれば、これから先も同じように疑われ続けます。今回は私で済みましたが、次はどうなるか分かりません」
意味深な言葉だった。俺は何と返せばいいか分からず、ただ頷いた。子供らしい愛想笑いも思いつかないくらい、その言葉には重みがあった。
「王都には、私のような人間ばかりではありません。噂を面白がるだけで終わらない相手も、いずれ現れるでしょう」
その言葉を最後に、レオンは馬車に乗り込んだ。見送りに出た父、クラーラ、ヴェルナー、そして俺の前を、馬車はゆっくりと通り過ぎていく。窓越しに一度だけこちらを見たレオンは、小さく会釈をしただけで、それ以上何も言わなかった。
門が閉まると、屋敷にようやく普段の空気が戻ってきた。
「終わった……」
クラーラがその場にへたり込みそうになるのを、ヴェルナーが慌てて支える。俺も同じくらい気が抜けていた。全身から力が抜けて、しばらく立っているのもやっとだった。
「よくやった。二人とも」
父の短い労いに、クラーラは涙ぐみながら笑った。ヴェルナーも、いつもより少しだけ表情を緩めていた。使用人たちにもすぐに知らせが回り、屋敷のあちこちから安堵の声が上がった。
匿名の訴えの差出人は、結局分からないままだった。レオンの言う通り、この一月をきっかけに、俺たちは王都という場所から「見られる存在」になったのだろう。それが良いことなのか悪いことなのか、今はまだ判断がつかない。
「王都には、私のような人間ばかりではありません、か」
ヴェルナーが、レオンの最後の言葉を反芻するように呟いた。
「気になる?」
「少し。坊ちゃんの『勘』のことも、悪い意味で気にする人間が現れないとも限りません」
その言葉に、俺は曖昧に頷いた。今日のところは、ひとまず乗り切った。それで十分だと思う一方で、レオンの忠告が、これから先も頭の片隅に残り続けるだろうことも分かっていた。
窓の外では、小麦畑の方角から、かすかに春の気配が漂い始めていた。輪作を始めてから、もうすぐ一年が経とうとしている。
(次回「麦畑の芽吹き」へ続く)




