第31話「疑いの根」
精査も終盤に差し掛かった頃、レオンが珍しく自分から切り出した。書類を脇に置き、それまでとは違う、どこか改まった空気をまとっていた。
「一つ、お伝えしておくべきことがあります」
父が居住まいを正す。俺とクラーラも、思わず身構えた。
「今回の巡察には、公式な選定理由とは別に、匿名の訴えが一件届いていました」
「訴え、ですか」
「境界の水利や、村との取引で得た利益を、私的に流用しているのではないか、という内容です。差出人の名は伏せられていますが、ダレン領の商家からと見られる筆跡でした」
その言葉に、俺は息を呑んだ。水利協定も、香草の取引も、正しくやってきたつもりだった。だが、外から見れば、急に増えた収入の使い道を疑われても不思議ではないのかもしれない。
私的流用の疑いという言葉に、隅で控えていたヴェルナーの気配が、わずかに硬くなったのが分かった。
「証拠を、お見せしてもよろしいですか」
クラーラが即座に立ち上がり、帳簿を取りに向かった。俺もその間に、机の上に残っていた収支の写しに視線を落とす。
――景色に薄く数字が重なる。
〈境界関連収支:水路修理費用/香草仕入れ費用/使用人手当/いずれも正規の帳簿項目に計上済み、私的流用の痕跡なし〉
数字の上では、何も後ろ暗いところはなかった。クラーラが戻ってきて、帳簿を広げる。
「水利協定にかかった費用はすべてこちらに。使用人への手当も、財政改善を受けて正式に決定したものです。一枚も抜けなく記載しています」
レオンは帳簿を丁寧に確認していった。ページをめくる音だけが、しばらく部屋に響く。時折、指を止めては数字を見比べ、また次のページへ進む。その様子は、疑いを晴らすためというより、純粋に数字が合っているかを確かめる作業に見えた。
「……確かに、不審な点はありませんね」
「では」
「訴えの内容が事実無根であることは、これで十分に示されました。この件は、これ以上追及しません」
父が小さく息をついた。俺も肩の力が抜けるのを感じた。
「差出人について、心当たりは」
父の問いに、レオンは少し考えてから答えた。
「筆跡と、送られてきた経路から見て、恐らくダレン領の商家の一つでしょう。詳しい名までは、こちらでは分かりかねます」
その言葉に、俺の頭にふと、ある人物が浮かんだ。ゴドウィンとの取引が始まって以来、ダレン領内の他の商家との間に、何か波風が立っていてもおかしくない。売上を奪われた側が、面白く思わないのは自然なことだった。ゴドウィン自身が名指しされたわけではないにしても、彼の周りにも似たような事情を抱えた商人がいるはずだ。
「ゴドウィンさんに、それとなく聞いてみようか」
俺がそう言うと、クラーラも頷いた。
「私から手紙を出しておきます。角が立たないように」
「変に問い詰める形にはしたくないな。あくまで、様子を伺う程度で」
「分かってます。ゴドウィンさんとの関係を悪くしたら、元も子もないですから」
クラーラは早速、文面を頭の中で組み立て始めているようだった。彼女のこういう切り替えの早さには、いつも助けられている。
レオンは書類をまとめながら、独り言のように呟いた。
「経済で伸びれば、必ずどこかで誰かの取り分を奪うことになる。それが恨みに変わるのは、珍しい話ではありません」
その言葉には、皮肉というより、経験に基づいた重みがあった。俺は少し意外に思いながら、彼の横顔を見つめた。この人も、こういう構図を何度も見てきたのかもしれない。
「精査は、あと一日で終わりにします。目立った問題は見当たりませんでした」
レオンの言葉に、屋敷全体がようやく息をつけそうな空気になった。長かった一月と、この数日の緊張が、ようやく形になって解けていく感覚だった。
だが、匿名の訴えという形で燻り続けている何かがある限り、この一件が本当に終わったとは、まだ言えなかった。経済で伸びれば誰かの取り分を奪う、というレオンの言葉は、これから先も何度も思い出すことになりそうな気がした。
(次回「巡察使の去り際」へ続く)




