第30話「見えない領域」
報告書を送った翌日も、レオンの精査は続いた。書類の山はさすがに減ってきていたが、彼の視線の鋭さは変わらない。父は執務で席を外していて、この場には俺とクラーラ、それにヴェルナーだけが残っていた。
「随分と、勘の鋭いご子息ですね」
不意にそう言われて、俺は内心身構えた。
「加工設備の投資額、水利協定の期限。どちらも、素人が偶然気づくには早すぎる話です。王都でも、辺境の小さな家が急に立ち直った例として、ちょっとした噂になっていましてね」
レオンは書類を軽く指で叩きながら、続けた。
「王都には、そういう噂を面白がる連中が多いんです。中には、悪意を持って探りを入れてくる者も」
「噂、ですか」
「まさか本当に何か特別な力でも持っているのでは、と。もちろん冗談ですが」
レオンの口調は軽かったが、目はまるで笑っていなかった。試すような視線が、俺の方にじっと向けられている。
――咄嗟に、視線を彼自身に向けた。
〈対象:レオン・フォン・ダレンベルク/現在の疑念度:中(確信には至っていない)/次の行動方針:不明〉
出てきた鑑定結果を見て、俺は少し戸惑った。疑っている度合いは分かるのに、この先どう動くつもりなのかは、まるで見えない。景色の向こうにある数字がどれだけ詳しくなっても、人の考えの先までは映らないらしい。
「特別な力なんて、そんな大層なものはないです。ただ、数字を見るのが好きで、気になったところを調べるだけで」
「調べる、というより、最初から見えているように見えますが」
「それは、レオン様の買い被り過ぎです」
そう言い切ったのは、俺ではなくクラーラだった。
「ノア様は、小さい頃から数字にはやたら細かい方でした。私も最初は驚きましたけど、慣れてしまえば、そういう子だと分かります」
さらりとした言い方だった。事前に打ち合わせたわけでもないのに、彼女はいつも通りの調子を崩さなかった。レオンはしばらくクラーラを見つめてから、小さく肩をすくめた。
「……まあ、いいでしょう。今は、それ以上を疑う根拠もありません」
その一言で、話はひとまず終わった。だが、完全に終わったわけではない。「今は」という言葉が、妙に耳に残った。
隅で控えていたヴェルナーが、わずかに視線をこちらに向けたのが分かった。何も言わなかったが、彼もこの空気を注意深く見ていたのだろう。
部屋を出た後、俺はクラーラに礼を言った。
「助かった。ありがとう」
「別に、嘘は言ってません。私が知らないことは、本当に知らないので」
彼女は少し困ったような顔でそう言った。庇ってくれたことへの礼のつもりだったが、彼女にとっては、あくまで事実の範囲での発言だったらしい。それが、余計に俺の胸に引っかかった。
「クラーラは、俺のこと、本当に疑ってないの」
「疑うも何も、ノア様が変な人だってことは、初めからずっと知ってますから」
真顔でそう言われて、俺は思わず笑ってしまった。彼女なりの言い方だったが、それ以上踏み込んでこないという意思表示にも聞こえた。「いつか、ちゃんと教えてください」という彼女の言葉を、俺はまだ果たせていない。
その日の夜、父にも今日の一件を伝えた。父は黙って聞いていたが、話を終える頃には眉間に薄く皺が寄っていた。
「疑われている、ということか」
「今のところは、確信はないみたいです。噂を確かめる程度の質問だったと思います」
「油断はするな。あの手の人間は、一度疑いを持ったら、確信を得るまで手を引かない」
短い忠告だったが、父自身もレオンという人物をよく見ているのだと分かった。俺は頷きながら、自分の部屋に戻った。
その夜、俺は自分の部屋で、鑑定というものの限界について考えていた。数字は見える。仕組みも見える。だが、人の心の中で次に何をするつもりか、という一番知りたい部分だけは、どうしても見えない領域として残っている。
前世でも、決算書をどれだけ読み込んでも、経営者が次にどう動くかまでは読み切れなかった。今の状況は、それとよく似ている気がした。数字の外側にある判断は、結局、人と向き合って初めて見えてくるものなのかもしれない。
「悪意を持って探りを入れてくる者もいる」というレオンの言葉が、なぜか頭の隅に引っかかっていた。あれは単なる世間話だったのか、それとも、何か別の意味を含んでいたのか。それすらも、鑑定では見えない領域だった。
(次回「疑いの根」へ続く)




