第29話「数字の向こう側」
翌日、レオンは朝から書類の山を崩さずに睨んでいた。屋敷に泊まり込みで、朝食もそこそこに書類に向き合う姿は、噂通りの徹底ぶりだった。父が同席し、俺とクラーラも隣に控える。
「隣領との水利協定について、伺いたい」
その一言に、空気が少し張り詰めた。昨日の投資記録の件で少しは空気が緩んだかと思っていたが、甘かったらしい。
「境界の水を分けてもらう取り決めをされたと聞きました。正式な文書もある。……ですが、これは中央への届け出は済んでいますか」
父の表情がわずかに動いた。俺も内心、しまったと思った。水利協定は隣領との合意であって、王都への報告という発想自体が、これまで誰の頭にもなかった。
「境界を跨ぐ水利の取り決めは、辺境伯の裁量で結べる。ただし、成立から一定期間内に中央へ報告する義務がある――ご存知でしたか」
レオンの声には、初めて確信めいた響きがあった。父は黙り込んだ。俺も、そんな規則があるとは知らなかった。
「知らなかった、では済まされません。期限を過ぎれば、協定そのものが無効とされる可能性もある」
部屋の空気が一気に重くなった。せっかく築いた水利協定が、手続き一つで白紙に戻るかもしれない。俺は焦る気持ちを抑えながら、机の上の書類に視線を落とした。
――景色に薄く数字が重なる。以前より、細部までくっきり見える。
【鑑定】
対象:境界水利協定の成立日および中央報告義務の期限
成立日:正式書面の日付を基準に算出
報告期限:成立から六十日以内(慣例上の目安)
現在の経過日数:四十七日
結論:期限内、まだ間に合う
「……まだ、間に合います」
思わず声が出た。父とレオンの視線が、同時にこちらを向く。
「協定が成立したのは書面の日付から、まだ五十日も経っていません。期限は成立から六十日以内のはずです」
レオンは眉を上げた。
「よくご存知で。……お若いのに、法規にも明るいと見える」
「詳しいわけじゃなくて、たまたま気になって、日付を数えただけです」
誤魔化すように答えたが、内心では冷や汗をかいていた。鑑定がなければ、そもそも期限があること自体、今日この場で初めて知ったはずだった。
「では、すぐに手続きを」
父が即座に指示を出す。クラーラが書類をまとめる準備に取り掛かり、ヴェルナーが使者の手配に動いた。屋敷の中が、急に慌ただしくなる。
「早馬なら、王都まで五日というところでしょうか」
ヴェルナーが地図を確認しながら言う。クラーラは正式な書式に則った報告書を、猛烈な速さで書き上げていった。俺は横で内容を確認しながら、抜けがないかを何度も見直した。前世で徹夜の資料作りを何度も経験した記憶が、こんな形で役に立つとは思わなかった。
レオンはその様子を、腕を組んで眺めていた。
「危ういところでしたね。知らなかったでは通らない類の話です」
「ご指摘、感謝します」
父の短い言葉に、レオンは意外そうな顔をした。突っかかってくると思っていたのかもしれない。
「素直ですね。もっと言い訳をされるかと思っていました」
「知らなかったのは事実だ。責めを負うべきところは負う」
その受け答えに、レオンはしばらく黙り、それから小さく息をついた。
「……悪癖ではなく、単なる見落としのようですね。中央への報告さえ済ませれば、この件は問題にしません」
その日の夕方までに、使者が正式な報告書を携えて出発した。屋敷に、ようやく安堵の空気が戻る。
「危なかった……」
クラーラが椅子に座り込みながら呟く。俺も同じ気持ちだった。せっかくの成果が、手続き一つで水の泡になりかけた。
前世でも、規則を知らないまま突き進んで痛い目を見た人間を何人も見てきた。今回は間一髪で済んだが、次はこうはいかないかもしれない。もっと広く、もっと先を見ておく必要がある。鑑定の見え方が変わったことを、俺は改めて実感していた。
隣で書類を片付けていたヴェルナーが、ふと口を開いた。
「坊ちゃんが日付に気づかなければ、危ないところでした」
「たまたまだよ、本当に」
「たまたまが、何度も続いていますね」
冗談めかした口調だったが、目は笑っていなかった。俺はそれ以上何も言えずに、曖昧に頷くしかなかった。
(次回「見えない領域」へ続く)




