第3話「六歳児、隣領の商人に噛みつく」
倉庫の布のことを、俺はまだ諦めていなかった。
父に取り合ってもらえないなら、別のルートを探せばいい。前世でも、上を説得できないときは現場から外堀を埋めるものだ。幸い、こっちには「六歳児だから多少のことは大目に見てもらえる」という、地味だが使い勝手のいい特権がある。
「母様、外の広場、行商人が来てるって本当?」
「ええ、今日はダレン領のね。……ノア、行商人に興味があるの?」
「見てみたいだけ。ハンナと一緒に行くから」
母は少し不思議そうな顔をしたが、止めはしなかった。六歳児が市場を見たがるのは、まあ、そこまで不自然な話でもない。
広場に着くと、荷馬車の脇に恰幅のいい男が立っていた。ダレン領から定期的に来る行商人で、名前はゴドウィンといったはずだ。エーレンフェスト領からは布や工芸品を安く買い叩き、代わりに向こうの織物を高く売りつける。うちの母の服も、この男から買ったものだった気がする。
鑑定を使うまでもなく、荷馬車には値札のようなものが見える。だが念のため、目を向けてみた。
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【鑑定】
対象:ゴドウィン(行商人)
取扱品:織物、香辛料、生活雑貨
仕入れ動向:エーレンフェスト領の骨董・織物を相場の3〜4割で買い取り、他領へ転売
利益率:通常取引の1.5〜2倍(買い叩き分含む)
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やっぱりか。前世でもこの手の業者は掃いて捨てるほど見た。情報格差につけこんで、片方だけ得をする取引を「相場」だと言い張るタイプだ。
「坊ちゃん、何か見繕いましょうか」
ゴドウィンは俺を見て、営業用の笑みを浮かべた。相手にする気は最初からなさそうな声だった。
「見繕うんじゃなくて、聞きたいんだけど」
「はは、坊ちゃんが商売の話ですか。可愛らしいですね」
「うちの倉庫にある南方の織物、この間そちらで似たようなの、銀貨十八枚くらいで売ってたよね」
ゴドウィンの笑みが、ほんの少し止まった。
「……坊ちゃん、それはどこでお聞きに?」
「聞いたわけじゃないよ。ただ、そのくらいの値段だろうなって」
もちろん鑑定で見た数字そのままだが、それを言うわけにはいかない。ゴドウィンは俺を値踏みするように見てから、少し声を落とした。
「まあ、市場というのは変動しますからね。うちが買い取る時と、売る時では事情が違うんですよ」
「事情が違うのは分かるけど、三倍とか四倍とかになると、それはもう事情っていうより、こっちが知らないだけだよね」
沈黙が落ちた。
周りにいた使用人が数人、こちらの様子をちらちら見ている。まずいと思ったのか、ゴドウィンは咳払いをひとつして、態度を切り替えてきた。
「……坊ちゃんは、ずいぶん面白いことをおっしゃる。まあ、次に取引する際は、多少色をつけさせていただきますよ」
多少、というのがどの程度かは分からない。だが今日のところは、これで十分だった。相手の手の内を見抜いていることを匂わせて、警戒させておく。全部をひっくり返すのは、まだ早い。こっちには後ろ盾も権限もないのだから。
「ありがとう。楽しみにしてる」
俺はそう言って、笑って見せた。六歳児らしい、無邪気な笑顔のつもりだった。
帰り道、ハンナが妙に静かだった。
「ノア様、さっきの、どこで覚えたんですか」
「……さあ、なんとなく?」
「なんとなくで、あんな交渉できませんよ、普通」
誤魔化すのに苦労した。ハンナは納得していない顔のまま、それ以上は聞いてこなかったが、これは早晩、誰かに勘づかれる話だろうな、と思った。
実際、屋敷に戻ってすぐ、思わぬところから声をかけられた。
「――今の話、本当ですか」
声のした方を見ると、書類を抱えたクラーラが立っていた。帳簿係見習いの、あの少女だ。どうやら使いの途中で、広場でのやり取りを見ていたらしい。
「本当って?」
「ゴドウィンの買い取り値のことです。あの、三倍とか四倍とかいう」
「……見てたの」
「たまたまです。でも、あの、私、前からおかしいとは思ってたんです。うちが安く売って、向こうが高く売ってる気がするって。帳簿の数字、合わないことが多くて」
クラーラの目には、これまで見たことのない色があった。単なる好奇心ではなく、もっと切実な、何かに縋るような光だった。
この子は、この家の数字がおかしいことに、独学で薄々気づいていたのだ。
俺は少し考えて、答えることにした。
「合わないと思ったなら、たぶんそれは合ってる。この家の帳簿、けっこう穴だらけだから」
「……やっぱり」
クラーラは書類を抱えたまま、しばらく黙っていた。それから、意を決したように口を開く。
「ノア様、もしよければ……私にも、教えていただけませんか。何をどう見れば、さっきみたいなことが分かるのか」
俺は少し驚いた。まさか向こうから言い出してくるとは思っていなかった。
「教えるっていうか……」
鑑定スキルのことは、まだ誰にも話していない。だが、この子になら少しくらい種明かしをしてもいいかもしれない、という気がした。数字が読める人間は、この家にとって、いずれ絶対に必要になる。
「今日はもう遅いから、また今度話そう。倉庫のこととか、色々」
「はい。……あの、ありがとうございます」
クラーラが頭を下げて去っていくのを見送りながら、俺は小さくため息をついた。
小さな勝利ではあった。だが同時に、限界もはっきり見えた一日だった。
発言権もない。体力もない。時間もない。一人でできることには、どうしたって限りがある。
剣も魔法もないこの体で、辺境を立て直すつもりなら――
早晩、誰かの手を借りることになる。
その一人目が、思いがけず向こうから声をかけてきた。
(第4話「帳簿係の少女と、隠された借金の正体」へ続く)




