第26話「値札のない働き」
水利協定の正式な書面が、グスタフの署名付きで届いたのは、それから半月ほど経った頃だった。
「これで、水路の件は本当に一段落ですね」
クラーラが書き付けを丁寧に綴じながら言う。棚に並んだ書類の束は、この一年足らずでずいぶん増えた。最初の頃は、負債の証文くらいしか目立つものがなかったはずだ。
俺は頷きながら、最近ずっと後回しにしていたことを思い出していた。年間の帳簿を、頭からきちんと見直すことだ。
「ちょっと、全体の数字、見直してみようか」
「今更ですか。でも、いい機会かもしれません」
クラーラが用意した帳簿を前に、俺は視線を落とした。
――景色に薄く数字が重なる。
〈年間収入見込み:820枚(前年比+340枚)/年間支出:590枚/負債残高:1,150枚(返済進行中)/破綻可能性:24%(前回鑑定時91%から大幅改善)〉
数字を見て、思わず声が出た。
「……随分、変わったな」
「変わりましたよ。ノア様が来てから、ずっと」
クラーラが当然のように言うので、少し気恥ずかしくなる。干し肉の定期契約、村の香草を使った新商品、水利協定、休耕地の試験開墾。ひとつひとつは小さな積み重ねだったはずなのに、数字にすると随分な変化になっていた。
その夜、父に数字を見せた。父はしばらく黙って帳簿を見つめてから、珍しく長く時間をかけて口を開いた。
「……この数字なら、少しくらい余裕を見てもいいだろう」
「余裕、ですか」
「今まで、誰にも報いてこなかった。ゲルトにも、フリーダやトビアスにも、ロルフにも。ヴェルナーの給金も、正直、見合ったものとは言えない」
父の口から、そんな言葉が出るとは思わなかった。これまでの父は、必要な仕事には対価を払うが、それ以上のことには触れない人だった。
数日後、屋敷の使用人たちが集められた。父から、些少ながら特別な手当を出すという話があった時、ゲルトは驚いた顔をして、それから深く頭を下げた。
「私なんかに、そんな……ありがとうございます」
以前の彼なら、きっとそのまま俯いて終わっていただろう。今は顔を上げて、ちゃんと父の目を見て礼を言っていた。
フリーダとトビアスも顔を見合わせて、嬉しそうにしていた。
「まさか手当まで出るなんて、思ってませんでした」
「実家に少し、仕送りできますね」
二人がそんな話をしているのを聞いて、俺は少し胸が詰まった。彼らにとっては、干し肉の仕込みも、干し場の見回りも、ただの仕事だったはずだ。それが今、生活そのものを支える手応えに変わっている。
ロルフは相変わらず表情を変えなかったが、受け取った手当を大事そうに懐にしまっていたのを、俺は見ていた。隣のダニエルは、師匠の様子をちらりと見てから、自分もぎこちなく頭を下げた。
「ヴェルナーは」
父が名を呼ぶと、ヴェルナーは一歩前に出た。
「私は、給金以上のことをしているつもりはありません。坊ちゃんの護衛は、私が望んでやっていることですから」
「それでも受け取れ」
短いやり取りだったが、ヴェルナーは軽く頭を下げて受け取った。表情はいつも通り乏しかったが、心なしか、背筋の伸ばし方が少し違って見えた。
最後に、父はクラーラの名も呼んだ。
「クラーラ、お前にもだ」
「私は、見習いの身ですし……お給金をいただいている以上のことをしたつもりは」
「香草の増産、まとめてきたのはお前だろう。見習いの仕事ではない」
クラーラは何か言い返そうとして、結局言葉を飲み込み、小さく頭を下げて受け取った。頬が少し赤くなっていたのは、寒さのせいだけではなさそうだった。
その様子を見ていたハンナが、俺の隣でぽつりと呟いた。
「奥様も、きっとお喜びになりますよ。使用人みんなが報われるのを見るのが、一番お好きな方ですから」
母のことだ。ノアを溺愛する母は、屋敷の人間関係にもいつも気を配っている。派手なことは何もしていないけれど、その気配りもまた、値札のつけようがない仕事のひとつだった。
俺はその様子を眺めながら、値札のつかない働きというものについて考えていた。誰かの誠実さや、慣れない仕事を黙々とこなす姿勢は、鑑定でどれだけ数字にしても、本当の意味では測りきれない。それでも、こうして形にして返せることは、今のこの家にとって、決して小さな一歩ではなかった。
破綻可能性91%だったあの日から、まだ一年も経っていない。それでも、屋敷の空気は確かに変わっていた。
(次回「王都からの便り」へ続く)




