第23話「取り決めの後で」
境界の村から戻った翌日、父の部屋に呼ばれた。
「グスタフとの話、正式な書面にする。お前の方でも、内容に間違いがないか確かめておけ」
「はい」
父はそれだけ言うと、書類の束に視線を戻した。以前なら、これで話は終わりだったはずだ。だけど今日は、少しだけ間があった。
「……昨日は、よくやった」
短い一言だった。すぐにまた書類に目を戻してしまったから、聞き間違いかと思うくらいだったけれど、確かにそう言った。俺は「ありがとうございます」と返すのが精一杯で、部屋を出るまで頬が緩むのを我慢するのに苦労した。
書面といっても、俺が字を書くわけじゃない。父の右筆が下書きを作り、クラーラが数字周りを確認し、最終的には父の署名と印で正式なものになる。俺の役目は、話し合った内容が抜け落ちていないかを見ることだった。
「分水一割五分、期間一年、双方の合意で見直し……うん、合ってる」
書き付けを覗き込んでいたクラーラが、俺の隣で頷く。
「これで、水路のことは一段落ですね」
「一段落、ではあるけど」
俺は少し言葉を切った。実は境界の村から帰る道すがら、ずっと考えていたことがあった。
水源の問題さえ片付けば、あの休耕地の半分は使えるはずだった。以前、ヴェルナーと二人で視察した時、水はけの悪い方はともかく、隣領の水源に頼っていた方は、水さえ来れば普通に畑として使える土地だったはずだ。
「クラーラ、ちょっと付き合ってくれる? あの休耕地、もう一度見ておきたくて」
「今からですか」
「今から」
俺たちは馬車を借りて、あの日ヴェルナーと歩いた道を辿った。ヴェルナーも護衛としてついてきて、荒れた土地を見渡しながらぽつりと言った。
「あの時は、水はけの悪さと隣領頼みの水源、両方が壁でしたね」
「片方は片付いたから、あとはこっちの都合だけ」
「随分、話が早くなりましたね」
軽口とも本気ともつかない調子だったが、以前のヴェルナーならこういう感想をわざわざ口にしなかった気がする。土地は相変わらず荒れたままだったが、水路の分水口はすでにロルフたちの手で整備されている。俺はその場に立って、土に視線を落とした。
――見慣れた感覚が来る。
〈北側区画:土壌養分中程度/水はけ普通/小麦・大麦向き適性あり/開墾必要度:低(休耕による自然回復あり)〉
思っていたより悪くない。放置されていた分、逆に土が休んでいたらしい。
「使えそうですか」
「うん、多分。でも――」
問題は土地の状態じゃなかった。今の人手で、干し肉の量産も、小麦畑の輪作も、水路の後始末も抱えている中で、新しい畑にまで手を回せるかどうかだ。バルトルトたちも、今の区画だけで手一杯のはずだった。
「フリーダとトビアスに聞いてみようか。加工の仕事、今より手が空く時期があるか」
「季節の谷間なら、多少は。でも、それだけで新しい畑を全部というのは……」
クラーラの言う通りだった。無理に人を割いて、今動いている事業の方が崩れたら本末転倒だ。
「じゃあ、全部じゃなくていい。まず区画の端、一番水はけがいいところだけ、来年の春に試しに耕す。それで様子を見る」
前世なら「小さく始めて検証する」なんて言い方をしていたところだが、口に出したのはもっと単純な言葉だった。クラーラはしばらく考えてから、小さく頷いた。
「バルトルトさんに相談してみます。あの人なら、無理のない広さがどのくらいか、ちゃんと分かるでしょうし」
帰り道、小麦畑に寄ってバルトルトを訪ねた。事情を話すと、老いた農夫はしばらく黙って考え込んだ。
「境界の土地、か。今の畑にかかりきりだが……端の方を試すだけなら、種蒔きの合間にどうにかなるかもしれん」
「無理はしないでください。だめそうなら、今年は見送りでも」
「坊ちゃんがそう言うなら、なおさら無理はしませんよ。まあ、任せてくだせえ」
バルトルトは短くそう言うと、また畑の方に視線を戻した。多くを語らないところは相変わらずだったが、以前より返事は早くなった気がした。
屋敷に戻ると、父に報告した。「まず一部だけ、来春に試す」という話に、父は特に驚いた様子もなく、短く「好きにしろ」とだけ言った。ただ、部屋を出る間際、思い出したように付け加えた。
「グスタフから、追加の言伝があった。水路の礼にと、村の産物を融通したいそうだ」
「産物、ですか」
「詳しくはマルクを通して聞け、とのことだ」
新しい取引の種が、また一つ増えたらしい。あの村は水路沿いの小さな集落だったから、目立った特産があるようには見えなかったけれど、鑑定で覗けば案外面白いものが出てくるかもしれない。俺は内心、忙しくなる予感に少し苦笑いした。屋敷の窓から見える空は、もうすっかり夕暮れの色になっていた。
(次回「村の産物」へ続く)




