第22話「境界を越えて」
ロルフたちが出発してから、四日が経った。
その間、俺はいつも通りクラーラと帳簿を突き合わせたり、ゲルトの作業場を覗いたりして過ごしていた。表向きは変わらない毎日だったけど、内心では正直、道具の柄が折れていたらとか、村でもめ事になっていたらとか、余計なことばかり考えていた気がする。
「気になるなら、素直に気になるって言えばいいのに」
二日目の午後、帳簿をつけながらクラーラがぽつりと言った。俺が何度も窓の外を見ていたのを見抜かれていたらしい。
「別に、そんなに気にしてないよ」
「顔に出てます」
言い返せなかった。前世なら、そういう心配は表に出さずに済ませる術くらい身についていたはずなのに、今の身体だとどうにも隠しきれない。
「戻りました」
四日目の夕方、屋敷の門をくぐってきたのはヴェルナーだった。後ろにロルフとダニエルも続いている。三人とも土埃はついているが、大きな怪我をしている様子はない。
「水路の修理は」
「無事に終わりました。グスタフ殿も、仕上がりには満足していたかと」
ヴェルナーの言葉に、俺はほっと肩の力が抜けた。ロルフが荷物を下ろしながら付け加える。
「壊れていた堰板を丸ごと作り替えました。前のより頑丈にできたと思います。ダニエルも、村の職人に交じって最後までよくやりました」
名前を出されたダニエルは、少し疲れた顔をしながらも、初めての仕事を終えた達成感からか、表情はどこか誇らしげだった。
その夜、父の部屋に報告に呼ばれた。
「修理は完了したそうだな」
「はい。ヴェルナーから聞きました」
父はしばらく黙って考え込んでから、思いがけないことを言った。
「水の話を正式に詰める。お前も同行しろ」
「……俺がですか」
「お前が組み立てた話だ。細部を投げ出すつもりはないだろう」
父の声はいつも通り素っ気ないが、これまでとは明らかに違う言い方だった。今までは「様子を探るだけなら」「まずは視察のみ」と、範囲を区切られてばかりだった。今回は初めから、交渉の場そのものに立てと言われている。
「……ありがとうございます」
それだけ言うのが精一杯だった。子供の身体だと、こういう時にうまく格好のいい返事ができないのがもどかしい。
数日後、俺はヴェルナーと共に、初めて自分の足で境界を越えた。ゲーリッツ村は思っていたより小さく、水路沿いに家がぽつぽつと並んでいるだけの集落だった。畑の緑は自領の北区画よりも心なしか元気がいい気がして、少しだけ悔しくなる。
「よく来たな、坊主」
グスタフは相変わらずぶっきらぼうだったが、以前ほどの警戒はなかった。ロルフたちの仕事ぶりが、村の中でも評判になっているらしい。すれ違う村人の何人かが、こちらに小さく頭を下げていった。
案内された水路のそばで、俺はさりげなく水の流れに目を落とした。
――景色に薄く数字が重なる。
〈境界水路 現在流量:平年比112%/自領北区画への分水可能量:全体の約15%/村側生活・農地への影響:分水15%までは軽微〉
思っていたより余裕がある。だが村の人間にとっては、目に見える数字ではないから、多く分けてくれと言われるだけで不安になるのも無理はない。
「グスタフさん、全部を分けてほしいわけじゃないんです。この水路の、多い時期の水量の、だいたい一割五分、そのくらいで足りると思ってて」
できるだけ子供らしい、柔らかい言い方を選んだ。数字を出しすぎると、また「勘のいい子供」だと勘繰られる。
グスタフは腕を組んで、しばらく水路を睨んでいた。
「……そのくらいなら、うちの田畑にも障りはねえだろうな」
「期間は、まず一年やってみて、それで様子を見直すっていうのはどうですか」
「一年で見直し、か。悪くねえ」
グスタフはそう言ってから、ふと真顔になった。
「一つ聞いていいか。坊主が言い出したことなんだろう、これ」
「……はい」
「辺境伯様の言いつけじゃなく、坊主が考えたって話か」
答えに迷った。鑑定のことは言えないが、嘘をつく必要もない。
「考えたのは俺です。でも、決めるのは父ですし、今日ここに来られたのも、父が許してくれたからです」
グスタフはしばらく俺の顔を見つめてから、短く笑った。
「律儀だな。まあいい、悪い話じゃなかった」
ヴェルナーが横で、条件を書き付けにまとめていく。細かい文言のやり取りはヴェルナーと村の年長者たちに任せて、俺はただ、隣で話が進むのを見ていた。前世なら自分で契約書を書き上げていたところだが、今はこのくらいの距離感がちょうどいい。
日が傾く頃、大筋の条件がまとまった。分水は水路の一割五分まで、期間は一年、双方の都合で見直しを行う。細かい取り決めは、後日改めて書面にすることになった。
帰り道、ヴェルナーがぽつりと言った。
「坊ちゃんは、今日は一言も、鑑定という言葉を使いませんでしたね」
「……気づいてたの」
「なんとなく、ですが」
それ以上、深くは聞いてこなかった。ただ、その距離の取り方に、少しだけ安心した。
(次回「取り決めの後で」へ続く)




