第21話「職人を送る日」
翌朝、屋敷の裏庭はいつもより人の出入りが多かった。空気はまだ冷たくて、吐く息が白い。俺は厚着をさせられたせいでちょっと動きにくいのを我慢しながら、荷車のそばまで歩いていった。
「坊ちゃん、まだ朝は冷えますから、あまり外に長くいると体に障りますよ」
先に来ていたヴェルナーが、俺の背丈に合わせるように少し屈んで言った。相変わらず表情はほとんど動かないが、声のトーンはこの数ヶ月でだいぶ柔らかくなった気がする。
「うん、平気。ちゃんと見ておきたくて」
荷車には、水路の道具を手入れする役目のロルフと、その弟子のダニエルが荷物を積んでいた。ロルフは四十がらみの寡黙な男で、鑿や鉋を無言で並べては紐で縛っている。ダニエルはまだ十代後半で、師匠の手元を真似ながらもたびたび手を止めて確認していた。
「積み終わりました」
ロルフが短く言う。ダニエルはまだ荷の縄をきつく締め直していて、師匠の様子をちらちら窺っては、自分のやり方が正しいかを確かめているようだった。
「ダニエルは、水路の仕事は初めて?」
「は、はい。師匠の手伝いをするのは慣れてますけど、村に泊まりがけで出るのは初めてで……」
言いながら、縄の結び目をぎゅっと引く手が少し強張っている。緊張しているのが、子供の俺にもよく分かった。前世なら「大丈夫、落ち着いて」なんて上から言いそうになるところだが、今の身体は向こうより小さいから、そういう台詞はどうにも似合わない。
「ロルフが一緒だし、道もヴェルナーが知ってるから平気だよ」
そのくらい言うのが精一杯だった。ダニエルは少し驚いた顔をして、それから「はい」と小さく頷いた。
俺はその横で、荷台の道具に何気なく視線を落とした。
――そこで、いつものあの感覚が来る。景色の上に薄く数字と文字が重なって浮かぶ、あの見え方だ。
〈鑿:刃の摩耗度78% 使用継続で破損リスク中/鉋:摩耗度35% 良好/水路修復用杭打ち槌:柄に亀裂 使用不可推奨〉
一番目立ったのは槌だった。柄の部分に細い亀裂が入っていて、鑑定の表示だと「あと数回の強打で破損」となっている。見た目にはほとんど分からない程度のひびで、多分ロルフ自身も気づいていない。
「ロルフ、その槌、柄のところ見てもらっていい?」
「柄、ですか」
ロルフが手に取って眺めるが、首をかしげる。俺はできるだけ子供らしい言い方で続けた。
「なんか、そこだけ変な感じがして。強く叩いたら折れちゃいそうな」
半信半疑という顔をしながらも、ロルフは槌を軽く机の角に打ちつけてみた。かすかな音とともに、柄の根元がぱきっと割れる。
「……本当だ。危なかったな、これは」
道中で折れていたら、水路の作業どころか怪我にもつながりかねない。俺はほっとしつつ、内心では前世の癖でつぶやいていた。出発前の最終チェックを怠るとこうなる。現場ではよくある話だ。
「道具小屋にもう一本、予備があったはずです」
ヴェルナーがすぐに動いて、代わりの槌を持ってきた。ダニエルがそれを丁寧に荷車に括り直す。
「ノア様のおかげで助かりました」
ロルフが珍しく表情を崩して言う。俺は照れくさくなって、「たまたま気になっただけだよ」とごまかした。鑑定のことは、ここでもやっぱり口にできない。
そこへ、父が姿を見せた。見送りに出てくること自体は、もう珍しいことではなくなっている。
「出立の準備は」
「整いました」
ロルフが背筋を伸ばして答える。父はうなずいただけで、多くを語らない。それでも視線はしばらく荷車の上を確かめるように動いていた。
「ヴェルナー、道中は」
「私が。村までの案内と、何かあった際の対応も含めて」
「頼む」
短いやり取りだったが、以前ならこうした場に父が顔を出すことすらなかった。そう思うと、変わったのは俺の周りだけじゃないのかもしれない。
父はふと、俺の方に目を向けた。
「お前が見つけた不具合だそうだな。槌の柄の」
「ヴェルナーから聞いたんですか」
「ロルフが報告した」
それだけ言うと、父はまた荷車の方に視線を戻した。褒め言葉のひとつもないが、以前なら報告そのものが上まで届くことはなかったはずだ。誰が気づいたかまで含めて耳に入っている、というのは、俺の中ではそれなりに大きな変化だった。
出発の直前、クラーラが庭に現れた。手には一枚の書き付けを持っている。
「ヴェルナーさん、これ、グスタフさんへの分です。水を分けていただく件、量と期間はまだ確定していませんけど、こちらの希望だけでも先に伝えておいた方がいいかと思って」
「承知しました。お渡ししておきます」
ヴェルナーが受け取り、懐にしまう。クラーラはそれを見届けてから、俺の方に目を向けた。
「……この間言ったこと、覚えててくださいね。今すぐじゃなくていいので」
「うん。覚えてる」
それ以上、お互い何も言わなかった。彼女はすぐにいつもの表情に戻り、荷車の積み荷を確認する作業に加わった。
やがて荷車が動き出す。ロルフとダニエル、そしてヴェルナーを乗せて、境界の村へ向かう道を進んでいく。俺と父、クラーラはしばらくその背中を見送っていた。
「戻ったら、次は水の話を正式に詰める」
父がぽつりと言った。誰に向けたというより、独り言に近かったけれど、俺には聞こえていた。
(次回「境界を越えて」へ続く)




