第20話「クラーラの疑問」
「ノア様、ちょっと数字が合わないところがあるんですけど」
クラーラが帳面を睨んだまま、俺を手招きした。夜も遅い時間だったが、断る理由もない。ろうそくの明かりの下、彼女の手元には数字がびっしり並んだ帳面が広げてある。俺は椅子によじ登るようにして、隣に座った。
「どこがおかしい?」
「全体で見ると、支出が想定より多いんです。でも、どこで多くなってるのか、細かく追いきれなくて」
彼女はもう何ページも見返した後らしく、目の下が少し赤い。几帳面な性格だから、こういう小さなずれが気になって仕方ないんだろう。
帳面を覗き込んでも、俺にはただの数字の羅列にしか見えない。仕方なく、帳面全体に意識を向けた。いつもの景色が重なる感覚とは少し違う。今回は数字そのものが、紙の上でわずかに浮き上がって見えた。合っている部分は薄く、ずれている部分だけがくっきりと濃く残る。ページをめくるたびに、濃淡の場所も変わっていく。まるで、紙の上に薄い霧がかかっていて、間違っている数字の周りだけ霧が晴れているような感じだった。
濃く見える箇所は二つあった。ひとつは、水路の補修に貸すはずの職人の分の費用。もうひとつは、ゴドウィンとの取引で前払いを受け取った分。どちらも、まだきちんと帳面に書き込まれていなかった。
「ここと、ここだ」
指をさすと、クラーラは驚いた顔をした。
「え……そんな、ぱっと見ただけで?」
「なんとなく、引っかかっただけだよ」
「なんとなく、で二箇所ぴったり当てるのは、ちょっとおかしくないですか」
いつもなら、そこで流してくれるはずだった。でも今日のクラーラは、じっとこちらを見たまま動かない。ろうそくの炎が揺れて、彼女の影が壁に長く伸びていた。
「ノア様の勘って、ずっと普通じゃないと思ってました。でも、今のは勘というより、もっと別の何かに見えました」
「……気のせいだと思うけどな」
「気のせい、で片付けるには、もう回数が多すぎます」
言葉に詰まった。誤魔化す台詞を探したけど、うまく出てこない。俺は視線を逸らして、帳面の隅をじっと見つめるふりをした。
クラーラはしばらく黙ってから、静かに言った。
「今すぐ教えてほしい、とは言いません。無理に聞き出す気もありません。でも、いつか、ちゃんと教えてください」
それだけ言うと、彼女は帳面に視線を戻し、記帳を続けた。それ以上は何も聞いてこない。助かった、というより、少し先延ばしにされただけだと分かっていた。
自分の部屋に戻ってからも、しばらく寝つけなかった。前世でも、隠し事はいつか漏れるものだと分かっていたはずなのに、いざ突きつけられると落ち着かない。クラーラに何をどこまで話すべきか、答えはまだ出ない。鑑定の出どころを正直に話したところで、信じてもらえる保証もない。かといって、いつまでも「勘」の一言で押し通せるとも思えなかった。
翌朝、水路の補修に誰を送るかを決めることになった。朝食の席で父にも一言伝えると、「好きに決めろ、ただし報告は忘れるな」とだけ返ってきた。屋敷で働く男たちの顔を思い浮かべながら、俺は一人ずつ意識を向けてみた。腕の良し悪しだけじゃなく、隣領の人間とうまくやれそうかどうかも、なんとなく感じ取れる。落ち着いた気性の者ほど、輪郭がはっきり見えるような、そんな感覚だった。
「道具の手入れをしてる職人と、その弟子がいいと思う」
「あの二人ですか。腕は確かですけど、口数は少ないですよね」
「口数より、揉め事を起こさないことの方が大事だ」
クラーラは少し考えてから、頷いた。
「分かりました。話を通しておきます」
近くで話を聞いていたヴェルナーが、珍しく口を挟んだ。
「境界沿いですから、道中は私も付き添います」
「頼めるか」
「坊ちゃんの采配ですから」
短いやり取りだったが、当たり前のように協力してくれる相手がいるのは、思っていたよりずっと心強い。
決めるだけなら、大したことじゃない。それでも、こうして一つずつ片付けていかないと、話は前に進まない。帳簿のズレは、記帳を追いつかせただけで片付いた。大した問題じゃなかった。でも、クラーラの目に残ったものは、簡単には消えそうになかった。
(次回「職人を送る日」へ続く)




