第18話「土を起こす」
翌朝、クラーラが分厚い帳面を抱えて執務室にやってきた。
「小麦畑の帳簿、持ってきました。でも、随分前のものなので、今の状態とはずれてるかもしれません」
「構わない。まず今の畑を見てくる」
朝食もそこそこに、俺はクラーラと一緒に北の畑へ向かった。屋敷から歩いて半刻ほど。畑には数人の農夫が出ていて、その中に白髪頭の老人がいた。畑の差配を任されているバルトルトという男だ。
「坊ちゃんが畑に何の用です」
あからさまに面倒くさそうな顔をされる。無理もない。これまで何度か改善案を出しては、実行されずに終わってきた土地だ。
「輪作をやりたい。土を休ませて、作る作物を毎年変える」
「そんなことをしたら、来年の収穫が減っちまいます」
バルトルトが即座に言い返してくる。長年この畑を見てきた男の言葉には、それなりの重みがあった。俺はしゃがみ込んで、目の前の土に手をついた。
意識を土に沈めると、視界の端に土地全体が薄く透けて重なって見えてくる。色の濃淡のようなもので、養分の残り具合が分かる。今の畑は、同じ作物を何年も作り続けたせいで、土の力そのものがかなり落ちている。まだらに濃い部分と薄い部分がある中で、薄い部分の方が明らかに広い。このまま続ければ、来年の収穫はむしろ今よりも減る側に向かう。数字にすると、今より一割ほど目減りする見込みだった。
「今のままでも、来年はどうせ減るぞ。土が疲れてるの、あんたも気づいてるだろ」
バルトルトの顔が、わずかに強張った。
「……まあ、収量が落ちてきてるのは、感じちゃいました」
「三年我慢すれば、三年目には今よりたくさん穫れるようになる。ちゃんと計算もしてあるんだ」
クラーラが帳面を広げ、以前まとめていた収穫予測の数字を見せた。バルトルトはしばらく黙って紙面を睨んでいたが、やがて小さく息を吐いた。
「三年、我慢しろってことですか」
「一年目は減る。でも二年目には戻ってくる。三年目には前より増えるはずだ。絶対とは言えないけど、今より悪くなることはないと思う」
「今のままより悪くならない、か」
バルトルトは腕を組んだまま、しばらく畑を見渡していた。周りの農夫たちも、手を止めてこちらの様子をうかがっている。
「うちの親父の代から、ずっと同じやり方でやってきたんですがね」
「今のままの方が楽なのは分かるよ。でも、このままだと、みんなの取れる分がどんどん減っていく。それを黙って見てるのは嫌なんだ」
「……分かりました。やってみましょう。ただし、種の手配と道具は屋敷持ちでお願いしますよ」
「もちろんだ」
思ったよりあっさり頷いてもらえた。長年扱われてきた土地だからこそ、悪くなっていることには気づいていたんだろう。あとは、変える踏ん切りがつくかどうかだけだった。
屋敷に戻り、父に報告すると、書類から顔を上げないまま「好きにしろ」とだけ返ってきた。もう驚くこともない返事だった。
「種代と道具代は、来月の収支に載せておきます」
クラーラがすかさず付け加えると、父は初めて顔を上げた。
「……お前がそう言うということは、金額はもう出ているのか」
「大まかには」
父はしばらくクラーラを見てから、俺の方に視線を移した。何か言いたそうな顔をしていたが、結局は「分かった」とだけ言って、また書類に目を戻した。以前なら、細かい数字まで自分で確かめないと気が済まない人だったはずだ。少しずつ、任せる部分が増えている。
その日の午後、俺はもう一度畑に足を運んで、区画ごとに何を植えるかを鑑定にかけた。土地ごとの相性が、うっすらとした光の濃さのように見えてくる。麦、豆、根菜。組み合わせを変えるだけで、見え方がわずかに違う。豆を植えた区画だけ、心なしか光が明るく見えた。
「クラーラ、この区画は豆を先に植えた方がいい。豆を植えると、土が元気になるみたいだ」
「豆で土が良くなるんですか」
「詳しい理屈は知らないけど、そういうものだ」
前世の記憶がうっすら混ざっているだけで、正確な農学の知識があるわけじゃない。ただ、鑑定の結果がそう言っている。
クラーラは帳面に区画ごとの割り当てを書き込みながら、ふと手を止めた。
「ノア様の勘って、いつも妙に細かいですよね」
「……そうか?」
「区画ごとに違う、なんて普通は分かりません」
それ以上は突っ込まれなかったが、彼女の目にはまだ何か考えている色が残っていた。誤魔化しきれているのかどうか、俺にも自信はない。
種の手配も、道具の調達も、これからだ。芽が出るまでにはまだしばらくかかる。畑を眺めながら、俺はふと、隣領の商人ゴドウィンのことを思い出した。あの時「多少考慮する」とだけ言って、それきり音沙汰がない。畑仕事が一段落したら、そっちの様子も見に行かないといけない。
(次回「ゴドウィンの再訪」へ続く)




