第17話 「水を分けてもらう話」
視察から三日後、父に呼ばれた。
「隣領の件だが」
「はい」
「話し合いそのものは、まだこちらから正式には持ちかけられん。ただ……」
父は少し間を置いた。
「様子を探るくらいなら、好きにしろ。表立って動くな」
正式な交渉権をもらったわけじゃない。あくまで「探るだけ」だ。それでも、前に進む許しが出たのは確かだった。
その日のうちに、俺はマルクに手紙を書いた。隣領側に伝手があるなら、水源の管理をしている相手に繋いでもらえないか。返事は翌々日に来た。「境界沿いの水は、ゲーリッツという村の水番が仕切っています」とある。マルクは織物の商いで、その村にも何度か出入りしたことがあるらしい。
「顔繋ぎくらいならお安い御用ですよ」
わざわざ屋敷まで来て、マルクはそう言って笑った。頼れる相手が一人いるだけで、話の進み方がまるで違う。
数日後、俺はクラーラとヴェルナーを連れて、マルクの案内でゲーリッツ村に向かった。荷馬車の荷台で、クラーラが帳面を膝に置いたまま外を眺めている。
「境界を越えるの、少し緊張しますね」
「表立っては動かない約束だ。挨拶に行くだけ、くらいの顔をしておけばいい」
「坊ちゃんがそう言うと、あまり説得力がないですが」
ヴェルナーが横から口を挟んだ。軽口のつもりらしいが、表情はほとんど変わらない。俺は反論する気も起きず、荷台の縁で足をぶらつかせたまま、村が見えてくるのを待った。
水番のグスタフという老人は、最初こそ「隣の坊ちゃんが何の用だ」という顔をしていたが、マルクが間に入るとすぐに態度が和らいだ。
「境界沿いの休耕地、うちで使わせてもらえないかと思って」
「水がないと使い物にならん土地だぞ」
「分かってます。だから水を分けてもらえないか、という相談です」
グスタフは渋い顔をした。当然だ。ただで水をやる理由はない。
このままじゃ平行線だ。俺は表情を変えないまま、意識をグスタフと、彼の背後に広がる水路に向けた。頭の中で、いつもの感覚が立ち上がる。数字や文字じゃなく、今回は景色そのものに重なるような形で情報が浮かんだ。
水量には余裕がある。使われていない分がかなりある。一方で、水路の補修は毎年秋に行われているが、直近三年は最低限の手直しで済ませていて、老朽化が進んでいる。人手を雇う金はあっても、腕のいい職人が村の近くにいない。
見えたものを、俺は頭の中で並べ直した。相手が欲しいのは水を守る手間の軽減だ。金じゃない。
「補修、うちの職人を貸したらどうです」
「は?」
「うちには保存食の加工で使ってる道具の手入れをしてる者がいます。水路の補修くらいなら、手伝えるはずです。その代わり、境界沿いの水を分けてもらえませんか」
グスタフは黙って考え込んだ。しばらくして、疑わしそうな目でこちらを見た。
「なんでそんなことまで分かる。うちの水路が古びてるなんて、よそ者に言われる筋合いじゃないんだが」
「見れば分かりますよ。水音とか、堰の様子とか」
苦しい誤魔化しだったが、グスタフはそれ以上追及してこなかった。年寄りの勘、くらいに思ってくれたのかもしれない。
隣で聞いていたクラーラが、一瞬だけこちらを見た。何か言いたそうな顔をしていたが、結局口には出さなかった。この手の「勘」を、彼女がどこまで本気にしていないのか、俺にも分からない。
「毎年の補修の手間が減るなら、そっちにも得な話のはずです」
「……村長に話は通すが、お前さんが言った通りにできるんだろうな」
「約束します」
その場で細かい条件までは詰めなかったが、大筋の話はまとまった。帰り道、クラーラが感心したように言った。
村を出て、日が傾き始めた道をしばらく歩いた。マルクとは村の入り口で別れた。荷馬車に揺られながら、クラーラが帳面を開き、今日聞き出した話を几帳面に書き留めていく。
「水そのものじゃなくて、向こうの困りごとを見つけたんですね」
「水をくれって頼むだけじゃ、向こうにメリットがないからな」
前世でも、こういう交渉は何度もやった。欲しいものを直接求めるより、相手の困りごとを先に見つける方が早い。
「ノア様がやると、なんでも早く片付く気がします」
「早いだけで、詰めが甘いのは自覚してる」
屋敷に戻ると、俺はすぐに父へ報告した。
「水路の補修と引き換えに、境界の水を分けてもらう話がまとまりそうです」
父は珍しく、少し間を置いてから聞き返した。
「様子を探るだけと言ったはずだが」
「探っているうちに、向こうが乗ってきたので。大筋は決まりましたが、正式な話は改めて通していただければと」
「……お前がそう言うと、探るという言葉の意味が違って聞こえるな」
呆れているのか、感心しているのか、判断がつかない顔で、父は小さく息を吐いた。
「まあいい。正式な段取りはこちらで詰める。お前は次の仕事に戻れ」
これで、水の問題はひとまず片付いた。あとは、実際にあの土地で何を育てるかだ。窓の外を見ながら、俺はふとある提案を思い出した。小麦畑の輪作。あれも、まだ手をつけていない。
「クラーラ、明日、小麦畑の帳簿を見せてくれ」
「急にどうしたんですか」
「使えるものは、全部使っておきたいだけだ」
(次回「土を起こす」へ続く)




