第13話「量産の壁と、増えすぎた注文」
隣領からの帰り道、荷馬車の荷台で揺られながら、俺は懐の契約書をもう三度も確かめていた。破れてもいないのに、確認しないと消えてしまいそうな気がして。
「ノア様、さっきからそれ、何回目ですか」
隣に座るクラーラが呆れたように言う。荷台の縁に足が届かないから、さっきから俺の足はぶらぶら揺れっぱなしだ。
「……喜んでいいのか、微妙なところなんだ」
「契約、成立したじゃないですか」
「成立したからこそ、だよ」
契約が取れて喜ぶのは早い。数字がついてこなければ絵に描いた餅だ――なんて、六歳の口から出す台詞じゃないよな、と自分でも思う。でも仕方ない。中身は三十四歳のおっさんなんだから。
屋敷に着くと、俺はまっすぐ加工場に向かった。ゲルトが炉の前で串をひっくり返しながら、フリーダとトビアスに何か言い聞かせている。
「ゲルト、聞きたいことがある」
戸口から声をかけると、ゲルトは一瞬だけ屈み、俺の目線に近い高さで応じた。
「ノア様。契約の件でしたら、もう耳に入っています」そこでまた元の姿勢に戻る。「正直、今のままじゃ間に合いません」
「間に合わない、というのは」
「今の量で回して、契約の六割ってところですね」
六割。頭の中で領地の帳簿と加工場の光景が重なる。今回浮かんだのは、いつもの箇条書きじゃなく、ただの一言だった。
――ボトルネックは乾燥工程。場所も時間も足りていない。
「乾燥、か」
「軒下一箇所しか干す場所がなくて、雨が降ればそこで止まります」
「場所さえあれば、もっと仕込めます」
口を挟んだのはフリーダだった。控えめな声だったが、はっきり言い切ったのは初めてかもしれない。数ヶ月前まで、名前を呼ばれるだけで肩をすくめていた娘だ。
「トビアスは?」
「フリーダの言う通りかと。天気が悪い日は手が空くのに、他にやることがないのも無駄です」
「使えそうな場所、心当たりある?」
「旧馬具倉庫、空いてますよね」
トビアスが即座に言った。俺は念のため意識を向けてみる。屋根はしっかりしている、通気もいい。裏付けが取れただけで、驚きは特になかった。
クラーラに費用を尋ねると、彼女は帳面をめくりながら少し黙り、やがて口を開いた。
「棚を作り直す程度なら、大きな出費にはなりません。ただ――」
「父上の許可が要る、だろ」
「はい」
夕方、俺は執務室の扉を叩いた。扉の取っ手は、相変わらず俺の肩の高さにある。
父は書類から顔を上げないまま、俺が話し終えるのを待っていた。用件を言い終えると、しばらく間があった。
「倉庫のことは、お前が見て回ったのか」
「はい。棚を組み直すだけなら、大した手間にはならないかと」
父はようやく顔を上げ、机の向こうから俺を見下ろした。
「好きにしろ」
短い返事だった。「無駄にはするなよ」と一言だけ付け加える。以前なら「下がれ」で終わっていたやり取りが、今は一往復半になっている。父は俺を子供扱いしないわけじゃない。ただ、聞く前に切り捨てなくなった。
執務室を出ると、廊下の窓から夕日が差し込んでいた。俺の背丈だと、その光は目にまともに入る高さだ。顔をしかめながら、加工場へ戻る道を歩いた。
数日後、旧馬具倉庫には棚が組まれ、フリーダとトビアスが手際よく肉を吊るしていく。踏み台がないと棚の上段に届かない俺の代わりに、二人が黙々と作業を進めていく様子を、俺はただ突っ立って眺めていた。
それでも意識を向けると、数字はわずかに動いていた。六割だったものが、七割台の後半まで。
「まだ契約分には届きませんね」
クラーラが帳面から顔を上げずに言った。
「届かない。でも、どこが足りないか分かってるなら、次に何をすればいいかも分かる」
「その考え方、たまにお医者様みたいですよ」
「医者、ね」
前世でそう言われたことがある。診断だけして、処方箋の実行には付き合わない厄介なコンサルだと陰口を叩かれていたけれど。
その夜、寝台に潜り込んでからも、残り二割をどう埋めるかが頭から離れなかった。子供の体は正直で、考え事の途中で眠気に負ける。うとうとしながら、隣領境界の休耕地のことをぼんやり思い出した。あの土地への引っかかりは、まだ確かめられていない。
それはまた今度だ。今は目の前の干し肉で、手一杯なんだから。
(次回「あと二割の人手」へ続く)




