30話 7日の絶望と200階層の秘密
天界から飛来した第一次侵攻部隊——美しき天使たちは、今、かつてないほどの『堕落』と『癒やし』の中にいた。
「はぁぁぁぁ……極楽、極楽ですぅ……」
「温かい……。神聖魔力が、プルプルのスライムちゃんに揉みほぐされていく……」
「ああっ、ダメです! それ以上モフモフされたら、私、天界に帰りたくなくなってしまいますぅぅっ!」
慈愛の魔王国が誇る超巨大施設、公衆大浴場(銭湯)。
その女湯と男湯に分かれた広大な露天風呂では、つい数時間前まで無表情で世界を滅ぼそうとしていた天使たちが、顔を真っ赤にしてお湯に浸かり、完全に骨抜きにされていた。
リムをはじめとするスライムたちが極上のマッサージを提供し、コハクやガルムの眷属である子狼たちが湯上がりの天使たちにモフモフの毛並みをすり寄せる。
レイの【慈愛の箱庭】によって感情を取り戻し、魂の底から癒やされた彼らにとって、この街はすでに『天界よりも居心地の良い真の楽園』と化していたのだ。
「おーい、湯加減はどうだー?」
男湯の仕切り越しにレイが声をかけると、天使の部隊長が「最高であります、慈愛の王よ!」と感極まった声を返してきた。
「いやはや、まさか神の使いまでお風呂の虜にしちまうとはな。あんたの慈愛は、本当に底が知れねえぜ」
隣で湯に浸かっていた獣人代表のザルガが、豪快に笑いながらレイの肩を叩く。
「でも、これで終わったわけじゃない。第一陣が丸ごと寝返ったとなれば、上の『管理者』とやらは黙っちゃいないだろう」
「ああ、そうだな……」
レイが空を見上げた、まさにその時だった。
——ギギギギギギギッ……!!
世界中の空気を軋ませるような、おぞましい不協和音が天を覆った。
露天風呂から見上げる空。先ほどまで天使たちを吐き出していた黄金色のひび割れが、突如として真っ黒に染まり、天界への門が『完全に閉鎖』されていく。
そして、門が閉じた後の空いっぱいに、大陸そのものを覆い尽くすほどの超巨大な魔法陣が、幾重にも重なって展開され始めたのだ。
『——警告する。世界の特異点よ。そして、それに与する下等な生命体どもよ』
脳内に直接響き渡る、性別も年齢もわからない無機質で絶対的な声。
しかし、その声には以前のような冷徹さだけでなく、明らかな『焦燥』と『恐怖』のようなものが混じっていた。
『貴様らの存在は、もはや世界の魔力バランスを根底から破壊する致命的なエラーである。我が手足である天使にまで異常な干渉を行い、システムの書き換えを行った罪は万死に値する。……よって、これより世界そのものを初期化する。七日後、極大消去魔法【創世の光】をもって、この大陸の全生命体を塵へと還す』
「なっ……世界を、初期化だと!?」
慌てて湯から上がり、バスタオル一枚で空を睨みつけるレイ。
『足掻くことは許されない。天界の門は完全に封鎖した。いかなる魔術でも、物理でも、この天界には干渉できない。七日間、己の罪を悔いながら絶望の中で消え去るがよい』
それだけを一方的に告げると、神の声は完全に途切れた。
後に残ったのは、空を覆い尽くし、ジリジリとチャージを始めた不気味な魔法陣の光だけだった。
***
「——逃げやがったわね、あのクソ神」
魔王国の執務室。急遽服を着て集まった首脳陣による対策会議は、大公エレオノーラの氷点下の怒声から始まった。
「下界のバグ(零)が自分の手駒をことごとく奪っていくことに恐怖して、天界の門を完全に閉じた上で、安全圏から大陸ごと爆撃してリセットする。……神のくせに、なんて卑小で姑息な手かしら」
「だが、笑い事ではありません」
ルカ教皇が青ざめた顔で巨大な魔法陣のホログラムを指し示す。
「あの『創世の光』……教国の禁書庫にも記述がありました。神が世界を創り直す際に使うとされる、純粋な破壊エネルギーです。いかなる物理障壁も、魔力防壁も貫通し、触れたものを分子レベルで消滅させる。……今の私の防護結界でも、防ぎ切ることは不可能です」
「おいおい、冗談じゃねえぞ。七日後に問答無用でゲームオーバーってことか? 防げないなら、あの魔法陣を作ってる元凶……神様本人をぶん殴って止めるしかねえじゃねえか!」
ザルガが机を叩いて吠えるが、魔術師ギルド長が首を振る。
「それができれば苦労はせん! 天界の門は完全に閉じられた。空へ向けてどれほどの魔法を撃ち込もうと、天界へ至る次元の壁は越えられんのだ!」
重苦しい空気が部屋を包む。
誰もが絶望的な状況に歯噛みする中、レイは静かに腕を組み、背後に控える堕天使シルフィアへと視線を向けた。
「シルフィア。……あるんだろ? 天界へ行く方法が」
「零様……」
レイの真っ直ぐな問いかけに、シルフィアは深く一礼し、静かに口を開いた。
「はい。……お察しの通り、一つだけ、天界のシステムルームへ直接殴り込める『裏口』が存在します」
「裏口だって!?」
エレオノーラたちが一斉に身を乗り出す。
「そもそも、神はどうやって下界の魔力濃度を管理し、間引きのための魔物を発生させていたと思いますか? 遠隔で魔法をかけていたわけではありません。下界に直接、天界から魔力を送り込むための『極太のパイプ(アンカー)』を打ち込んでいたのです」
「……まさか」
レイはハッとして、自らの足元——地の底を指差した。
「ええ。そのアンカーの終着点であり、神の魔力が最も濃く滞留する場所。それこそが、零様が最初に目を覚ました場所……『奈落の迷宮・第200階層(最下層)』です」
「な、なんだって……!」
ルカが驚愕に目を見開く。
「神は、異世界からの転移者である零様を『異常なバグ』と認識し、最も神の監視の目が届きやすいアンカーの底……第200階層に隔離したのでしょう。本来なら、そこで魔物に殺されるか、発狂して死ぬのを待つはずでした。……ですが、零様はその異常なまでの慈愛と力で、監視用の魔物たちをすべて『家族』にしてしまったのです」
「なるほどな……」
レイはニヤリと笑った。
「神様が俺を隔離した一番奥底の部屋が、神様の寝首を掻くための『直通エレベーター』だったってわけだ」
「そういうことです。あの第200階層の空間そのものが、天界と繋がる次元の特異点。そこから膨大な魔力でアンカーを逆流すれば……神が引きこもっている天界へと直接侵攻することが可能です」
シルフィアの説明を聞き、執務室の空気が一気に「絶望」から「反逆の熱気」へと変わった。
「決まりだな」
レイは立ち上がり、力強く宣言した。
「あのふざけたカウントダウンがゼロになる前に、神界に殴り込んで魔法陣を止める。……『神様ぶん殴り遠征軍』の結成だ!」
「「「オオォォォォォォッ!!」」」
ゴル、ガルム、コハクたち幹部魔物たちが、主の言葉に呼応して地響きのような咆哮を上げる。リムも「ピュイピュイッ!」と勇ましく跳ね回った。
「私も行くわよ、零」
不敵な笑みを浮かべ、エレオノーラ大公が名乗りを上げた。
「大公閣下!? 人間の身で神界へ乗り込むなど、危険すぎます!」
ネロが慌てて止めるが、大公は扇子でピシャリとその言葉を遮った。
「私たちの世界を勝手にオモチャにしてくれた落とし前、直接顔を見て払わせなきゃ気が済まないわ。それに、いくら零たちの力が規格外でも、天界のシステムや防衛機構を突破するには、私の『知略』が必要になるはずよ」
「……助かるよ、エレオノーラさん。俺も、頭脳労働はシルフィアと大公閣下に任せた方が安心だ」
レイが嬉しそうに頷く。
「ならば、潜入と工作のスペシャリストも必要でしょう」
部屋の影から、ジンたち『幻影の刃』の三人が音もなく姿を現した。
「我々も同行させてください。使者殿たち(隠密三連星)との連携なら、神の目すら完全に欺いてみせますよ」
「よし。人間界の防衛と、住民の避難誘導、万が一魔法陣が起動した時の時間稼ぎの結界は、ルカ教皇とザルガさんに頼んでいいか?」
「任せておけ! 地上は俺たちが死守する!」
「神の驕り、どうか打ち砕いてきてください、零殿!」
役割は完全に定まった。
人間、魔物、そして堕天使。
かつて世界を分断していたすべての力が今、一つに結集し、理不尽な創造主へと反旗を翻す。
「出発は今すぐだ。まずは俺たちの始まりの場所……第200階層へ戻るぞ!」
空を覆う絶望の魔法陣の下で、最高の笑顔を浮かべるレイたち。
世界を護るための、そして孤独だった神様に『本当の愛』を教えてやるための、最初で最後の天界侵攻作戦が、今まさに幕を開けようとしていた。




