29話 天使の侵攻と対策済みの魔王
空が、文字通り『割れた』。
黄金色の亀裂から溢れ出したのは、純白の翼を持つ無数の天使たちと、巨大な光の輪を背負った神竜や神獣の群れだった。
彼らは一切の感情を感じさせない、まるで精巧な機械のような冷たい瞳で地上を見下ろし、世界を半壊させるための無慈悲な『神罰の光』を放とうと一斉に魔力を練り上げ始めた。
狙いは、この大陸の新たな中心地となった『慈愛の魔王国』、そして大公国をはじめとする同盟国の主要都市。
本来であれば、逃げ惑う人々の悲鳴と絶望が響き渡るはずの地獄の光景。
だが——彼ら神の軍勢は、一つだけ致命的な計算違いをしていた。
「——来ましたわね、神の傀儡ども! ルカ教皇! ザルガ代表!」
「「応!!」」
大公エレオノーラの凛とした声が、魔術通信を通じて大陸中の同盟軍へと響き渡る。
魔王国の巨大な純白の城壁の上では、新生・神聖ルミナス教国の若き教皇ルカと、彼を慕う精鋭の神聖騎士団が、すでに極大の防衛陣形を構築し終えていた。
「我らが護るべきは狂った神の意思ではない! 今、この地に生きる尊き命だ! 【多重展開・聖域の天蓋】!!」
ルカの叫びと共に、魔王国だけでなく各国の都市の上空に、幾重にも重なる巨大な光の防護結界が展開される。
直後、天使たちが雨あられと降らせた『神罰の光の矢』が結界に衝突したが、激しい火花を散らすだけで、地上の民草には何一つ届かない。
かつて教国の狂信者たちが使っていた魔法は、今、本物の『護るための力』として機能していたのだ。
「結界が防いでる間に、お返しだァッ!! 獣人連合、魔術師ギルド、撃てェェェッ!!」
獣人代表のザルガが咆哮すると、地上から一斉に魔法と巨大なバリスタの矢が逆空へと放たれた。大公国の銀竜騎士団も空へと舞い上がり、天使の軍勢の陣形を外側からゴリゴリと削り取っていく。
人間、獣人、エルフ、ドワーフ。かつては神のシステムによっていがみ合わされていた種族たちが、エレオノーラの完璧な指揮のもと、一糸乱れぬ連携で天界軍を完全にシャットアウトしていたのだ。
「馬鹿な……下界の人間どもが、神の光を防ぐだと……?」
空に浮かぶ天使の一人が、無表情な顔に微かな驚きの色を浮かべた、その時だった。
「ギャルルルォォォォォォォッ!!」
天界軍の主力である、全長五十メートルを超える巨大な光の神竜が、突如として悲鳴を上げて墜落し始めたのだ。
その背中——いや、首根っこをガッチリと掴み、強引に地上へと引きずり下ろしていたのは、漆黒の重甲冑を纏った鬼神、オーガ・ロードのゴルだった。
「グルァァァァァッ!!(神様のトカゲだか知らねえが、ウチの主の街で暴れるんじゃねえ!!)」
ゴルは神竜を魔王国の外れの荒野に叩き落とすと、その巨大な尻尾を両腕で掴んで強引に振り回し、なんとプロレス技のジャイアントスイングの要領で他の神獣の群れにぶん投げた。
さらに、空中で体勢を立て直そうとした神竜の背後に回り込み、強烈なバックドロップをお見舞いして完全に沈黙させる。
「キシャアアアアッ!」
「……ワォォォォォンッ!!」
他の神獣たちがゴルを援護しようと飛びかかってくるが、彼らの前に立ち塞がったのは、光の速さで戦場を駆け抜ける双頭の炎狼ガルムと、影から影へと神出鬼没の襲撃を見せるシャドウ・フェンリルのコハクだった。
ガルムが放つ『地獄の業火』が神獣の光の防壁を容易く溶かし、コハクの鋭い影の爪がその巨体を的確に切り裂いていく。
「下等な獣や魔物風情が……ッ! 神の裁きを受けよ!」
焦った数十人の天使たちが、一斉に上空から極大の神聖魔法を紡ごうとした。
しかし。
「ピュイッ♪」
彼らの頭上に、いつの間にか一匹のプルプルとした青いスライム——リムがふわりと落下してきていた。
リムは自らの体を巨大なパラボラアンテナのような形状に変化させると、天使たちが放った神聖魔法の光線をすべてその体で『吸収』。そして、そのまま威力を倍増させて「ピュイィィィィッ!」と気合いの声と共に上空の天使たちへと反射したのだ。
「なっ……! ぐわぁぁぁぁっ!?」
自らの魔法を倍返しされた天使たちは、黒焦げになって次々と空から墜落していく。
神の想定値の百倍以上にまでステータスがバグ進化している魔物たちにとって、天界の軍勢など少し手強いだけの「ただの獲物」に過ぎなかった。
「……あり得ない。我ら神の使いが、下界の特異点ごときに押し負けているというのか……?」
次々と撃ち落とされていく仲間たちを見て、天使の部隊長が呆然と呟いた。
彼らは神から「感情」を奪われ、ただプログラムの通りに動く機械として作られている。だからこそ恐怖は感じないはずなのだが、目の前で繰り広げられる理不尽なまでの『力の差』に、彼らの論理回路は完全にショートしそうになっていた。
「よし、みんな! いいぞ! でも殺しちゃ駄目だ、彼らも神様に操られてるだけなんだから!」
そして。
戦場を飛び回る天使たちの前に、黒髪の少年——レイが姿を現した。
「貴様が、世界のバグ……特異点、天導零! 貴様さえ消去すれば……!」
部隊長を含む数人の天使が、光の剣を構えて一斉にレイへと突撃してくる。
だが、レイは剣を抜くことすらしなかった。
彼は飛来する天使の攻撃を、ステータスの暴力による紙一重の回避でスッと躱すと、そのまま天使の懐へと飛び込み——ドンッ、と胸に優しく掌を当てたのだ。
「——【慈愛の箱庭】!」
温かな金色の光が、戦場を優しく照らし出した。
それは、攻撃魔法でも、洗脳魔法でもない。ただ純粋な『無償の愛』の力。
「な、何を……? これは……あ……?」
レイの底なしの温かい魔力を魂に直接注ぎ込まれた瞬間。
天使たちの冷たい無表情に、パリンッと音を立てて『亀裂』が走った。
神によって奪われ、封じ込められていたはずの『感情』。
それが、レイの圧倒的な慈愛の力によって強制的にこじ開けられ、溢れ出してしまったのだ。
「あ……あぁ……っ。なんだ、これは……」
「温かい……。神様の光よりも、ずっと……ずっと、優しくて、温かい……」
レイに胸を触れられた天使たちは、光の剣を取り落とし、ポロポロと大粒の涙をこぼし始めた。
それは、生まれて初めて「愛されること」を知った子供のような、純粋な涙だった。
「痛かっただろう。無理して戦わなくていいんだよ。俺たちは、君たちを傷つけるつもりはないから」
レイが優しく頭を撫でると、天使たちはまるで羽を休める小鳥のように、レイの胸にすがりついて泣き崩れた。
「おい、どうなっている! 攻撃を続行……あ、ああ……」
仲間を助けようと飛び込んできた後続の天使たちも、レイが次々と【慈愛の箱庭】を発動していくことで、バタバタとその場にへたり込み、涙を流して戦意を喪失していく。
もはや、それは戦闘というより、集団セラピーのような光景だった。
「……信じられません。神の呪縛である『感情封印』を、愛の力だけで強引に書き換えてしまうなんて」
空からその様子を見ていたシルフィアが、かつての同僚たちが涙を流して救済されていく姿に、感極まったように呟いた。
「いや、本当にあいつの力は規格外だな……。まさか、天使まで手懐けちまうとは」
遠くから見ていたザルガやエレオノーラたちも、これには完全に呆れ果てて(そして安堵して)笑うしかなかった。
「……よし、これで第一次部隊は制圧完了だな」
レイは、自分の周りでシクシクと泣きながらすり寄ってくる数十人の天使たちを見て、困ったように、けれど優しく微笑んだ。
「いっぱい泣いて、疲れただろ? 戦いはもう終わりだ。……そうだ、うちの街には自慢の『巨大銭湯』があるんだ。とりあえず、お風呂にでも入ってゆっくりしないか?」
「お、お風呂……? それは、温かいのですか……?」
「ああ、最高に温かくて気持ちいいぞ。背中くらい流してやるよ」
コクリ、コクリ。
さっきまで世界を滅ぼそうとしていた天使たちは、レイの言葉に赤ん坊のように無垢に頷いた。
圧倒的な物理の暴力で神獣を捻じ伏せ、究極の慈愛で天使たちの心を救済する。
神が絶対の自信を持って放った天界軍の第一次侵攻は、慈愛の魔王陣営の規格外すぎる力の前に、誰一人として死者を出すことなく、あっけなく……そして最高に温かい形で瓦解したのであった。




