23話 教国の瓦解の音の始まり
23話 教国の瓦解の音の始まり
神聖ルミナス教国の中枢、大聖堂の最奥に位置する『神託の間』。
かつては絶対的な権力と神の威光に満ち、大陸全土を支配する甘美な謀略が語られていたその部屋は今、かつてないほどの混乱と恐怖に包まれていた。
「教皇猊下ァァァッ!! げ、猊下はいらっしゃらないかッ!?」
バンッ! と乱暴に重厚な扉が開き、転がり込むように入ってきたのは、異端審問局長だった。
豪奢な法衣は泥と煤にまみれ、顔を隠していた鉄仮面はどこかに落としたのか、脂汗と恐怖に歪んだ素顔を無様に晒している。迷宮の入り口から、馬を何頭も潰して文字通り「逃げ帰って」きたのだ。
「何事だ、局長! その見苦しい姿はなんだ!」
円卓の上座で、教皇が不快げに顔を顰める。周囲の枢機卿たちも、彼の無様な姿に眉をひそめた。
「ま、魔王が……! 迷宮の石門ごと、奴らを『聖浄の業火』で焼き払ったのです! 周辺の村も、最前線の我が軍の兵士たちも巻き込んで、間違いなく直撃させたのです! だが……ッ!」
「だが、なんだ! もったいぶらずに言え!」
「無傷でした……! 魔王の軍勢は、誰一人として傷一つ負わず、業火を弾き返して悠然と這い出してきたのです!!」
「なっ……!?」
教皇が持っていた金糸の杖が、カランと音を立てて床に転がった。
神の奇跡とも称される、教国最強の大規模殲滅魔法。それを至近距離で、あまつさえ味方の命という尊い犠牲まで払って撃ち込んだというのに、敵は無傷。
教皇の頭の中で、思い描いていた『魔王討伐の英雄』というシナリオが、ガラガラと音を立てて崩れ去っていく。
「ば、馬鹿な……神の炎だぞ!? それを弾き返すなど、あり得るはずがない! では、現場はどうなっている!? 数万の聖騎士団と異端審問官が残っていたはずだろう!」
「わ、わかりません……! 私は真っ先に報告へと走ったため……しかし、あのまま正面衝突していれば、間違いなく全滅か……」
己の逃亡を正当化する局長の言葉に、円卓の誰もが言葉を失った。
数万の兵力と莫大な軍資金、さらには自国の領民の命まで犠牲にしておいて、得られた戦果は『ゼロ』。それどころか、無傷のバケモノの群れを地上に解き放ってしまったのだ。
「お、おのれ……! おのれ悪魔め……ッ! ならばすぐに第二陣を編成しろ! そしてヴェスペル大公国へ向かわせた偽装部隊に伝令を走らせよ! 魔王軍が地上に出た今、直ちに国境の町を火の海にし、パニックを引き起こすのだ!」
教皇が青筋を立てて叫んだ、まさにその時だった。
「急報ッ!! 東部国境の伝令部隊より、緊急の報告です!!」
今度は、全身を汗でびしょ濡れにした伝令兵が、転ぶように神託の間へと飛び込んできた。
その顔は局長以上に青ざめ、ガクガクと全身を震わせている。
「な、なんだ!? ヴェスペル大公国への潜入部隊が作戦を開始したか!」
「ち、違います……! 失敗です! 我らが放った偽装工作部隊数百名……国境の森を抜けようとしたところを、ヴェスペル大公国の『銀竜騎士団』および獣人連合の伏兵によって、完全に包囲されました!!」
「……は?」
教皇の口から、間の抜けた声が漏れた。
「そ、それで!? 偽装部隊は全滅したのか!?」
「い、いえ……大公国の軍は、我々の部隊を『誰一人として殺さず』、魔法と物理で完膚なきまでに制圧し……全員、生け捕りにしたとのことです……! 現在、彼らは教国の陰謀を証明する『証人』として、大公城の地下牢へ移送中であると……ッ!」
しんと、神託の間に静寂が落ちた。
誰の口からも言葉が出ない。いや、頭の処理が完全に追いついていなかった。
「……ま、待ち伏せ……? 全員、生け捕り……?」
教皇は玉座に崩れ落ちるようにへたり込んだ。
極秘裏に進めていたはずの他国侵略の偽装工作が、なぜ向こうに完全にバレていたのか。なぜ、あらかじめ森の中に最強の騎士団が伏兵として潜んでいたのか。
偶然ではない。ヴェスペル大公国は、教国の動きを『完全に把握』した上で、最悪のタイミングでカウンターを合わせてきたのだ。
「どういうことだ……何が起きている……!?」
枢機卿の一人が、頭を抱えて悲鳴のような声を上げた。
「我が国の最高機密が、なぜヴェスペルに漏れている!? それに、魔王の進軍のタイミングと、国境での待ち伏せのタイミングが良すぎる! まるで……まるで、魔王とヴェスペル大公国が裏で手を結び、同時に我々を罠にハメたような……!」
「馬鹿を言え!!」
教皇が血を吐くような声で怒鳴った。
「人間と、奈落の魔物が手を組むなどあり得るか! 奴らは意思疎通すら不可能な破壊の化身だぞ!!」
だが、現実は彼らの狂信を冷酷に打ち砕いていた。
迷宮の入り口では、禁呪を撃っても傷一つ負わない魔王軍。
国境では、こちらの策を完全に読み切った大公国の伏兵。
手駒はすべて失われ、残ったのは『味方ごと村を焼き払った』という取り返しのつかない大罪と、『他国を不当に侵略しようとした』という決定的な証拠だけだ。
「猊下……! こ、このままでは、次回の「大陸会議」において、我が国はすべての罪を暴かれ、ヴェスペル大公国と反教国同盟によって国際社会から完全に抹殺されてしまいます!」
「わかっている! わかっているわッ!! だからどうにかしろと言っているのだ!!」
教皇は机を叩き割らんばかりの勢いで拳を振り下ろすが、打開策など誰一人として思いつくはずもなかった。
「偽装部隊は『勝手に暴走した反逆者』として切り捨てますか!?」
「無理だ! 装備の出所も、兵の素性もすぐに割れる! そもそも捕虜に自白魔法をかけられれば一発で終わりだ!」
「ならば大公国へ今すぐ正規軍を向け、捕虜を力ずくで奪還するしか……!」
「馬鹿者! 迷宮の入り口に数万の主力軍を置き去りにしてきた(しかも禁呪で半壊させた)状況で、どこに他国へ攻め込む余力があるというのだ!!」
会議は完全に空転していた。
誰かが策を提案しては、別の誰かがその絶望的な矛盾を突きつける。
大声で怒鳴り合い、責任を押し付け合い、己の保身だけを考えて泣き喚く。かつて世界を支配すると豪語していた聖職者たちの姿は、ただ死を待つだけの惨めな老人たちのそれへと成り下がっていた。
盤面はすでに『詰み(チェックメイト)』を迎えている。
彼らが自分たちを絶対の強者だと信じて傲慢に振る舞っている間、地下の優しき魔王と地上の知将は、一切の血を流すことなく、この巨大な腐敗国家の喉元に、致命的な刃を突き立てていたのだった。




