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慈愛の魔王。〜全ての生き物に慈愛を神への反逆〜  作者: 盆ちゃん


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19話 作戦の成功と使者の協力による敵陣の散歩

19話 作戦の成功と使者の協力による敵陣の散歩


「魔王が来るぞ! 世界が滅ぶぞ!」

 そんな教皇の狂熱に煽られ、神聖ルミナス教国の全土から集められた数万の聖騎士と異端審問官たちが、奈落の迷宮の入り口に分厚い包囲網を敷いてから、さらに二週間の月日が流れていた。

 迷宮の巨大な石門を見下ろす谷底の陣地。

 かつては「神の敵を討ち果たす」という熱烈な信仰心と士気に満ち溢れていたその場所は、今や見る影もなく疲弊しきっていた。

「……おい、交代の時間だぞ。起きろよ」

「あぁ……? もうそんな時間か……クソッ、腰が痛え」

 夜明け前の冷え込む陣地で、純白のはずだった薄汚れた鎧を鳴らしながら、若い聖騎士が大きく欠伸をした。

 彼らの目は落ち窪み、無精髭が生え、その顔には隠しきれない『疲労』と『苛立ち』が色濃く張り付いている。

 無理もない。

 数万規模の軍隊を、前線——それも何もない谷底の荒野に長期間駐留させるということは、莫大な兵糧と資金を文字通り「食いつぶす」行為に他ならない。

 最初の数日は士気も高く、支給される食事も温かいスープと肉だった。しかし、いつまで経っても魔王は現れない。一週間が過ぎ、二週間が過ぎる頃には教国の遠征予算は底を見せ始め、食事はカチカチの黒パンと塩水のようなスープへと露骨にダウングレードされていた。

「なあ、本当に魔王なんて昇ってきてるのかよ……。下層の斥候からは、もう何日も『魔力反応は第130階層で完全に停止している』って報告しか来てないじゃないか」

「しっ、馬鹿野郎! 異端審問官の耳に入ったら『不信仰』で鞭打ちだぞ!」

「不信仰って言われたってよ……。毎日毎日、重い鎧を着たまま何もない洞窟の入り口を睨み続けるだけの生活だぞ。村に置いてきた嫁と子供は元気にやってるか……聖戦税のせいで、ただでさえ生活が苦しいってのに……」

 兵士たちの間に蔓延するのは、明確な『疑心暗鬼』と『信仰心の揺らぎ』だった。

 見えない敵への恐怖は、時間と共に「本当に敵はいるのか?」という疑念へと変わり、やがて教国上層部への不満へと姿を変える。

 本来であれば、彼らを束ねるはずの高位の指揮官たち——聖騎士団長や異端審問局長ですら、教皇からの「絶対に見逃すな」というヒステリックな通達と、目減りしていく資金のやり繰りに忙殺され、完全に余裕を失っていた。

「探知用の魔水晶の輝きが鈍っているぞ! 魔力石の補充を怠るな!」

「き、局長閣下……それが、本国からの魔力石の補給が完全にストップしておりまして……。現在の出力を維持すれば、あと三日で完全に枯渇します」

「ええい、役立たずどもめ! ならば出力を半分に落とせ! どうせ魔王軍のバケモノどもが動けば、嫌でも分かるわ!」

 天幕の中で怒声を上げる異端審問局長。

 本来なら針の穴を通すような精密さを誇っていた教国の『絶対封鎖網』は、兵糧不足、資金不足、疲労、そして内部の不協和音によって、ズタズタに綻び始めていたのである。

 ——そして。

 それこそが、地下で優雅に温泉を満喫しているレイと、地上で冷徹に盤面を操るエレオノーラ大公が仕掛けた、完璧な盤外戦術(遅延工作)の成果であった。

「……酷い有様だな。あれが、大陸最強と謳われた神聖ルミナス教国の精鋭かよ」

 迷宮の第1階層。地上への出口である石門まであとわずか数十メートルの暗がりに潜みながら、『幻影の刃』のリーダーであるジンは、呆れたように小さく息を吐いた。

 ジンの隣にはカイル。背後には『夜帷の梟』の隊長を含む四名。そして、レイの使者であるドッペル、ファント、シャドウの三体が、完全に気配を殺して控えている。

 総勢九名からなる、奇跡の混成隠密部隊だ。

「魔力探知の網は張られていますが、出力は規定の半分以下。何より、監視者の『意識』が完全に散漫になっています。彼らの目は石門を向いていますが、心は故郷のベッドと温かい食事に向かっていますね」

 『夜帷の梟』の隊長が、冷徹な目で敵陣を分析する。

「ああ。とはいえ、正面から堂々と歩いて抜けられるほどザルじゃない。……使者殿、打ち合わせ通りにいけるか?」

 ジンが振り返ると、黒装束に身を包んだ人間の青年の姿(真祖・ドッペルゲンガーのドッペル)が、自信に満ちた笑みを浮かべて頷いた。

「ええ。造作もありません」

 作戦開始。

 最初に動いたのは、ハイ・ファントムロードの『ファント』だった。

 彼は迷宮の入り口周辺の空間に、極めて局所的かつ高精度の『幻影結界』を展開した。教国の兵士たちが見つめている石門の風景を、リアルタイムの映像から「何も起きていない偽の風景(ループ映像)」へとすり替えたのだ。疲労で焦点の合っていない兵士たちは、景色がわずかに揺らいだことすら気づかない。

「次、カイル、梟の魔術兵!」

「応!」

 人間の魔術師たちが、九人全員の足音、衣擦れの音、呼吸音を完全に相殺する『音響隔離』の結界を何重にも重ね掛けする。

「では、私が皆様の魔力波長を偽装します」

 続いてドッペルが、九人全員を不可視の魔力糸で繋いだ。

 彼が行ったのは、単なる気配遮断ではない。入り口付近に設置されている教国の『魔力探知水晶』が発している波長を完全に解析・模倣し、九人全員の魔力波長を「探知水晶が拾う迷宮の自然なバックグラウンドノイズ」と全く同じものに書き換えてしまったのだ。これで機械的な探知は完全に無効化された。

「……完璧だ。シャドウ、頼む」

「……(コクリ)」

 最後に、アビス・ストーカーの『シャドウ』が動いた。

 彼の足元から漆黒の闇が広がり、九人全員の体を下から飲み込んでいく。物理的な肉体を『影そのもの』へと変換する、シャドウ最大の神業『深淵潜行アビス・ダイブ』だ。

 幻影で視覚を欺き、結界で聴覚を断ち、波長偽装で魔力探知をすり抜け、影と同化して物理的な干渉をゼロにする。

 人間界の最高峰と、魔界の規格外が完全に融合した、絶対に破られることのない『究極の隠密行』。

 スゥゥゥ……ッ。

 九つの影が一つにまとまり、地面を滑るように迷宮の石門を越えた。

 すぐ真横——距離にしてわずか一メートル先には、槍を構えながら舟を漕いでいる聖騎士が立っている。探知水晶のすぐ真下を通過し、怒鳴り散らしている異端審問局長の天幕の真横を、一陣の夜風よりも静かに通り過ぎていく。

 誰一人として気づかない。

 何万という兵士が目を光らせる大陣地のど真ん中を、彼らは文字通り『存在しないもの』として悠然と横断していったのだ。

 やがて、谷底の陣地を完全に抜け、夜明けの光が差し込み始めた小高い丘の上。

 教国の監視網から完全に脱出したことを確認したジンは、シャドウの影から実体へと戻り、大きく、長く、新鮮な地上の空気を肺に吸い込んだ。

「……ハッ、ははははっ! 痛快だな! あんな大軍勢のど真ん中を、無傷でお散歩してやったぜ!」

 常に冷静なジンが、こらえきれないといった様子で笑声を上げる。

 『夜帷の梟』の隊長や隊員たちも、極度の緊張から解放され、額の汗を拭いながら互いの肩を叩き合って無言の歓喜を分かち合っていた。

「見事な連携でした、人間の皆様」

 ドッペル、ファント、シャドウの三人もまた、隠密装束の覆面を外し、清々しい表情で一礼した。

「ああ、使者殿たちのおかげだ。レイ殿の遅延戦術といい、あなた方の神業といい……我々の陣営は、間違いなく教国を凌駕している」

 ジンは丘の上から、眼下に広がる教国の巨大な陣地を見下ろした。

 そこには、存在しない魔王に怯え、仲間同士でいがみ合い、無駄に兵糧を消費し続ける滑稽な狂信者たちの姿があった。

 もはや彼らは脅威ではない。エレオノーラ大公とレイの手のひらの上で踊らされているだけの、哀れな道化だった。

「さあ、帰ろう。大公閣下と、平和な未来が待つ我々の故郷——ヴェスペル大公国へ」

 朝日が昇り、九人の精鋭たちの顔を明るく照らし出す。

 彼らは迷宮の入り口を背にして、西に広がる自由の地を目指し、弾むような足取りで駆け出していった。

 魔王の慈愛が紡いだ平和への使者が、ついに、人間の社会へとその第一歩を踏み出した瞬間であった。


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