17話 魔王の使者の尋常ならざる力と囮の不必要さ
17話 魔王の使者の尋常ならざる力と囮の不必要さ
第70階層、静寂に包まれた岩窟エリア。
迷宮の暗がりを、音はおろか空気の揺らぎすら一切立てずに高速で駆け上がる六つの影があった。
先頭を走るのは、ヴェスペル大公国が誇る最強の隠密部隊『幻影の刃』のジン、カイル、リゼの三人。
そして彼らの背後にピタリと追従しているのが、レイから託された三体の『平和の使者』——人間の隠密に完全に擬態したドッペル、ファント、シャドウである。
(……凄まじいな。本当に、たった一週間の訓練で仕上がった存在なのか?)
走りながら、ジンは内心で驚愕の汗を流していた。
隠密行動において、複数人で歩調と気配を完全に同化させることは至難の業だ。しかし、背後の三人は、ジンたち『幻影の刃』の洗練され尽くした足さばきを完全に模倣……いや、それ以上の精度で『無音』を体現し、ぴったりと追従してきているのだ。
その時。ジンの鋭い気配察知が、前方の暗がりに潜む『同業者』の匂いを捉えた。
「——止まれ」
ジンの短いハンドサインで、六つの影がピタリと岩陰に縫い付けられる。
直後、前方の空間が陽炎のように歪み、濃紺の隠密装束を纏った五つの人影が音もなく姿を現した。
「流石だな、ジン。我々の『夜帷』の隠形術をこの距離で看破するか」
「その声……『夜帷の梟』の隊長殿か。こんな中層まで、どうした?」
現れたのは、大公国が放ったバックアップ部隊だった。
隊長が覆面を少し下げ、険しい表情でジンに告げる。
「大公閣下からの特命だ。教国が迷宮入り口の封鎖を完全に固め、アリ一匹逃さない狂乱状態に入っている。我々は、使者殿を連れたお前たちが地上へ抜けるための『陽動(捨て駒)』となるべく派遣された。教国の探知に引っかかりそうになれば、我々が偽の痕跡を作って派手に散る。その隙に地上へ抜けろ」
「陽動……いや、捨て駒だと?」
悲壮な決意を語る隊長に対し、ジンは思わず吹き出しそうになるのを堪え、苦笑した。
「隊長殿、その覚悟はありがたいが……不要だ。我々に『被害』など絶対に出ないし、捨て駒など一人もいらない」
「なに? しかし、教国の網は尋常ではないぞ。いくらお前たち『幻影の刃』でも、護衛対象(使者)を抱えながら無傷で抜けられるほど甘くは——」
「その『護衛対象』が規格外なんだよ」
ジンは顎で背後をしゃくった。
隊長をはじめとする『夜帷の梟』の五人は、ジンの背後に控える黒装束の三人に視線を向ける。……そして、背筋にぞわりと冷たい汗を掻いた。
(なんだ、こいつらは……!?)
(目の前にいるのに、呼吸音も、心音も、魔力の揺らぎすら一切感じない……! まるで『虚無』そのものだ!)
「紹介しよう。彼らが慈愛の魔王殿から託された、平和の使者殿だ。……正直な話、純粋な隠密技術だけなら、俺たち『幻影の刃』に勝るとも劣らない。教国の目など、彼らからすればただのザルに等しい」
「こ、これが……魔王の使者……」
信じられないものを見るような梟たちの視線を受け、代表してドッペルが一歩前に出ると、完璧な貴族の礼を執ってみせた。
「お見知りおきを、大公国の精鋭の方々。我々は主より、血を流さずに地上へ至る道を命じられております。どうか、我々の実力を信頼していただければと存じます」
その淀みない人間の言葉と、洗練された佇まいに、梟の面々は完全に言葉を失った。
「で、だ」
呆然とする彼らをよそに、ジンは梟の副長である青年・ネロへと視線を向けた。
「ネロ。お前は俺たちと合流せず、一人でこのまま地下へ向かうという話だったな」
「……ハッ。私は大公閣下より『双星の交信珠』を預かっております。これを第130階層にいらっしゃる魔王殿にお渡しし、専属の軍事参謀として陣営に常駐しろとの命を受けております」
ネロは力強く答えたが、その手は微かに震えていた。
無理もない。いくら「慈愛に満ちている」と聞かされていても、これからたった一人で、神話級の化け物たちがひしめく魔王の巣窟へ降りていかなければならないのだ。恐怖を感じないほうがおかしい。
「……ネロ、お前一人で行かせるのはやめだ」
「えっ? しかし、閣下からの命が——」
「魔王殿が危険だからじゃない。この迷宮そのものが危険だからだ。それに、緊張でガチガチの人間が一人で飛び込んでいったら、魔王殿の配下たち(過保護なバケモノたち)に無用な警戒を抱かせかねん」
ジンはそう言うと、隣に立つ軽業師のリゼの肩をポンと叩いた。
「リゼ。お前がネロの護衛兼、案内役として同行しろ。お前なら、魔王軍の幹部たちの顔も知っているし、向こうも安心するだろう」
「了解! 任せてよ、リーダー」
リゼはウインクをして、ネロの背中をバンッと叩いた。
「大丈夫よ、ネロ副長! 魔王様はすっごく優しくてカッコいい男の子だし、幹部のみんなも……ちょっとサイズはおかしいけど、撫でると喜ぶもふもふのワンちゃんとか、プルプルのスライムちゃんばかりだから!」
「も、もふもふのワンちゃん……? 魔王の幹部が……?」
ネロは完全に頭にハテナを浮かべていたが、実際に魔王陣営に滞在し、良好な関係を築いているリゼが同行してくれるという事実は、彼にとって何百人の護衛がつくよりも心強いものだった。
死地に赴くような悲壮感は消え去り、ネロの顔に安堵の血色が戻る。
「よし。では、リゼとネロはこれより地下へ。俺とカイル、そして梟の残り四名で使者殿を地上へご案内する。……行くぞ!」
ジンたち地上帰還組と、ネロたち地下降下組は、互いの武運を祈って背を向け、それぞれの道へと駆け出した。
——そして、ジンたちが第60階層付近まで上ってきた時のことだった。
キィィィィィッ!!
突如、迷宮の天井に空いた無数の穴から、鼓膜を劈くような超音波と共に、数百匹の『ブラッド・バット』の群れが襲いかかってきたのだ。
中層の吸血蝙蝠。個々の力は弱いが、これだけの群れとなれば、音もなく通り抜けるのは不可能に近い。
「チッ、不運なエンカウントだ! ジン、我々が囮になって引きつける! その間に使者殿を——!」
夜帷の梟の隊長が覚悟を決め、短刀を抜いて前に出ようとした、その瞬間だった。
「——お下がりください。これは我々の役目です」
ファント(ハイ・ファントムロード)が静かに呟くと同時、空気が『無』になった。
ファントの放った幻影結界が、コウモリたちの視覚・聴覚・超音波探知のすべてを完全に狂わせ、彼らに「そこに何もない」という絶対的な幻を見せたのだ。
混乱して空中で衝突し合うコウモリの群れ。
そこへ、完全に影と同化したシャドウ(アビス・ストーカー)が、床の影から無数の『闇の刃』を無音で射出した。物理干渉を受けない刃は、コウモリたちの急所だけを正確に貫き、悲鳴を上げる隙すら与えずに次々と絶命させていく。
最後に、ドッペル(真祖・ドッペルゲンガー)が、迷宮自身の魔力波長を完全に模倣した『不可視の魔力網』を展開。撃ち落とされた数百匹のコウモリの死体が床に落ちる前にすべて網で受け止め、血の一滴、羽の一枚すら地面に落とすことなく、迷宮の壁の奥へと静かに収納してしまった。
時間にして、わずか数秒。
凄まじい大群の奇襲は、音も、光も、血の匂いすら一切残すことなく、完全に『なかったこと』にされたのだ。
「「「「…………っ!!」」」」
短刀を構えたまま硬直する梟の四人は、顎が外れそうなほど口を開け、ガクガクと震えていた。
自分たちが命を賭けて囮になろうとした相手を、瞬きする間に、しかも『完全に無音』で処理してしまった。これが、人間社会の常識を教え込まれたばかりの魔物だというのか。
彼らの隠密と暗殺の技術は、もはや神域に達している。ジンが「捨て駒など不要だ」と笑った意味を、梟たちは魂のレベルで理解させられた。
「ふふっ。驚くのはまだ早いぜ、隊長殿。レイ殿の陣営には、彼らみたいな規格外が『数千体』もいるんだからな」
呆然とする梟たちを見て、ジンはどこか誇らしげに笑った。
頼もしすぎる使者たち。そして、彼らを育て上げた慈愛の魔王。
この絶対的な力と、大公閣下の知略が組み合わされば、教国の包囲網など恐るるに足らない。
「さあ、急ごう。大公閣下と、愚かな教皇が待つ地上はもうすぐだ」
ジンの号令とともに、完全に士気(と畏敬の念)を取り戻した隠密部隊は、さらなる加速を見せて地上の出口へと迫っていく。
平和のための歯車は、もはや誰にも止められない速度で回り始めていた。




