16話 閑話教皇の計算外と大公の対策
16話 閑話教皇の計算外と大公の対策
ルカ司教からの二度目の決死のリーク——「教皇が魔王の停滞に焦りを覚え、迷宮入り口の封鎖をかつてないほど厳重にし、アリ一匹逃さない構えを見せている」という急報がヴェスペル大公国にもたらされたのは、夜明け前のことであった。
大公城の地下作戦室。
魔導ランプの青白い光に照らされた円卓で、大公エレオノーラはギデオンから渡された暗号解読紙に目を通し、ふっと冷ややかな笑みをこぼした。
「……愚か者め。自らが流した『魔王の脅威』という嘘に自らが追い詰められ、疑心暗鬼に陥っているわね。神の言葉を信じ切れていないのは、他ならぬ教皇自身だという証明だわ」
「ええ。ですが閣下、状況は決して楽観視できません」
諜報長官のギデオンが、険しい表情で迷宮の立体図を指し示した。
「現在、第130階層付近にて、我が国の『幻影の刃』が魔王殿と接触し、使者となる魔物を連れて帰還の途についているはずです。彼らの隠密能力は大陸随一ですが……相手の使者(魔物)を連れ、さらに教国の『狂乱状態の完全封鎖網』を無傷で突破するとなれば、さすがの彼らでもリスクが高すぎます」
「そうね。少しでもボロを出せば、異端審問官の探知に引っかかり、地上に出る前に問答無用で包囲されてしまう。それに……」
エレオノーラは赤い瞳を細め、さらに深い階層へと視線を向けた。
「ジンたちが無事に使者を連れて帰還できたとしても、地下に残る魔王殿はどうなる? 教国のリアルタイムの狂った動きを、彼らは知る術がないわ。情報共有のためにジンたちの誰か一人が再び第130階層まで伝令として戻るとなれば……教国の警戒網と、強力な魔物が徘徊する迷宮を『たった一人で』行き来し、戦い続けなければならなくなる。そんな無謀な真似をさせれば、確実に命を落とすわ」
使者の護衛と、魔王側への継続的な情報提供。
この二つの課題を同時に解決しなければ、せっかく繋がった平和への糸は簡単に千切れてしまう。
「ギデオン。我が国の別働の隠密部隊『夜帷の梟』を直ちに召集しなさい」
「……ハッ! すでに待機させております」
ギデオンが短く合図を送ると、部屋の隅の影から、ジンたちとはまた異なる、濃紺の隠密装束を纏った五つの人影が音もなく現れた。彼らもまた、ヴェスペル大公国が誇る一騎当千の精鋭部隊である。
「よく来てくれたわね。貴方たち五人に、極秘かつ最も危険な任務を与えるわ」
エレオノーラは立ち上がり、五人の精鋭たちを見据えた。
「任務は二つ。第一に、貴方たちのうち四名は上層階から降下し、帰還してくるジンたちの部隊と合流。彼らと魔王の使者を無事に大公国へ送り届けるための『護衛兼、陽動のバックアップ』に回りなさい。教国の封鎖網を突破する際、もし探知されそうになれば、貴方たちが偽の痕跡を作って教国の目を引きつけるのよ」
「「「「御意」」」」
四人の隊員が、迷いなく深く頷く。
「そして第二の任務……部隊の副長であるネロ。貴方は合流後、一人でさらに地下へと潜りなさい。第130階層——あるいはさらに深部にいる『魔王殿』の元へ向かい、我が国からの専属の軍事参謀として彼らの陣営に常駐するのよ」
「私が、魔王の陣営に直接……」
理知的な瞳を持つ青年ネロが、小さく息を呑む。
それは、文字通り化け物たちの巣窟のど真ん中に、たった一人の人間として身を投じることを意味する。
「ええ。魔王殿は慈愛に満ちた御方だとジンから報告を受けているわ。貴方を傷つけることは決してない。貴方の役目は、孤立している彼らに教国の動きをリアルタイムで伝え、不安を払拭し、彼らの進軍を我々が完全にサポートすることよ」
エレオノーラはそう言うと、手元の豪奢な木箱を開けた。
中には、星空のように深く煌めく二つの美しい水晶玉——ヴェスペル大公国の国宝級の魔導具が収められていた。
「極秘魔導具『双星の交信珠』。距離や迷宮の魔力干渉を一切無視して、音声だけでなく『視覚情報』や『戦術地図』を遅延なく共有できる代物よ」
エレオノーラは片方の水晶玉をネロに手渡した。
「これを魔王殿に渡しなさい。これがあれば、地下の魔王殿と、地上の私が、完全に同じ盤面を見ながら『同時に』作戦を指揮できる」
「……! 素晴らしい。これさえあれば、教国がいつ、どこで焦土作戦の炎を放とうとも、我々と魔王軍の連携によって完全に裏をかくことができますね」
ギデオンが感嘆の声を漏らした。
「その通りよ。教国が罠を発動するその瞬間、我々が地上で村人を避難させつつ教国の偽装部隊を叩き潰し、同時に魔王殿が地下から完璧なタイミングで突破口を開く。……一秒の狂いも許されない同時作戦を、この魔導具で実現させるのよ」
エレオノーラの言葉に、五人の『夜帷の梟』たちは武者震いを抑えきれない様子で、深く、力強く平伏した。
自分たちの主は、教国の陰謀をただ防ぐだけでなく、この世界を縛る神の狂った盤面そのものを、魔王と共にひっくり返そうとしているのだ。
「頼んだわよ、ネロ。魔王殿に伝えてちょうだい。『貴方たちはもう孤独ではない。地上のすべては、私が引き受ける』と」
「ハッ! 大公閣下のお言葉、そしてこの『平和への切り札』、命に代えましても必ずや慈愛の王の元へとお届けいたします!」
ネロをはじめとする五人の精鋭たちは、決意を胸に再び闇の中へと溶けていった。
——こうして、大公国からの手厚すぎるバックアップ部隊と、逆転のための極秘魔導具が迷宮へと放たれた。
地上ではエレオノーラが国境防衛と民草の救出に向けて軍を秘密裏に動かし、地下ではレイが仲間たちと共に決戦の準備を整えている。
物理的な距離は遙かに離れていながらも、互いの「慈愛」と「平和への執念」によって強く結びついた二つの陣営は、教国という巨悪を討ち果たすための壮大な挟撃作戦へと、ついにその駒を進めたのである。




