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チキタ!

 少女と小人がギアカンドの頂に足を掛け、遥か地平線の先まで埋め尽くす雲の世界を睨みつけていた。雲はまるで大海原のように波を打ち、その波間から無機質な尖塔がいくつも顔を出す。ギアカンド。人間の世界に並ぶもののない超常の山脈群。無数の尖塔は巨大な山脈から伸びる尾根の突先たちだ。少女と小人は幾多の山脈を越え、ついに辿り着いた。目指したものがすぐそこにある。

「どうだ」

「あそこ、あれがそうじゃない?」

「どこだ?」

「あれ!間違いないよ。いた!」

「よし!」

 二人がそこから探し出し、見つけたもの。それは驚くほど巨大な人影であった。人影は山脈の峰々の一座に腰を下ろし、頭は雲を突き破っている。居並ぶ山脈はどれも巨大だ。だが、かの人影にとっては背もたれにしてくつろぐ腰掛けに過ぎない。その桁外れの大きさに、手を伸ばせばすぐにでも触れることさえできると思わせる。視界の寸法が狂って目が眩む。


 巨人!


 彼らこそは世界を睥睨する絶大なる支配者。

 森羅万象の王にして恐るべき破壊の悪鬼。

 超然たる力の化身にして無敵の軍神。

 巨人の前ではすべてが虫けら。誰もが魂を抜かれて跪く。命乞いの暇などない。踏み潰される方が速いのだ。当たり前だ。人間ごとき虫けらを踏み潰して何が悪い。考えてもみるがいい。人間と巨人とでは、生きる世界があまりに違い過ぎるのだ。人間が手に入れられるどんなものも巨人を満足させられはしない。それでどうして会話ができる。


 だが、しかし。


 さりとて巨人だろうと命は尽きる。森羅万象の王とて不死ではない。慮外の死が彼らを悩ませる。それは、巨人を殺す未来を巨人たちが知らぬせいだ。むべなるかな、未来を知らねば巨人とてくたばる。くたばって物言わぬ塊になる。それではあまりに口惜しい。

 想像してみるがいい。この世の雑多な生命の、生と死の洪水のようなるつぼにおいて巨人として生を受ける。それがどれほどの奇跡であるかを。考えうるあらゆる幸運をかき集めても叶うものではない。大抵は虫けら。無為に生まれて死ぬだけの、くだらん虫けら。それで同じ一度の生涯。だからこそ、巨人として生まれたからには、すべてを支配するべきなのだ。すべてを破壊し、すべてを蹂躙するべきなのだ。そうでなくてなんのための巨人だ。それでこそ、この世に巨人として生を受けた意味というもの。そうであるから、巨人には求めてやまぬものがある。この世界に蔓延る全ての死から逃れる未来。不意の死を避ける未来。それだけが、巨人の望むすべてだ。


 もしも、そんな未来について話すものがいるとしたら。


 それなら話が違ってくるはず。巨人だろうと耳を傾けるはず。そして、その未来はエルフが知っている。エルフの未来を見通す力は巨人の死期にも及ぶのだ。

 エルフとは何者か。エルフは人間だが、少し違う。肉体は虚弱で驚くほど臆病。だから巨人の前には決して現れない。代わって現れるのは、そのエルフから予知を託された人間だ。人間は何ら力のない素朴な人間。未来を見通す力のない虫けらの方の人間だ。だが、無下にはできん。たとえ、人間が虫けらに見えても、彼らの話す言葉にエルフから託された未来が込められているかも知れないのだから。


「ははっ、凄いね!」

「巨人を見るのは初めてか」

「もっと小さいのなら。でもあんなのは見たことない」

「踏み潰されて死ね」

「うるさいよ」

 少女が笑いながら返すと、小人もニヤリと笑う。

 小人。そいつはどんなやつか。赤毛混じりのもじゃもじゃヒゲで、それが顔の下から上までぐるりと繋がっている。頭は隣に立つ少女の膝と同じ高さにあって、人間の体をぎゅっと圧縮したような短い体と、それに見合う手足がちんまりと生えている。小人だからそれで五体満足に釣り合っているのだ。名前はガラドリン。ドワーフ族はどこかで人間と進化の袂を分かったのだろう、そこはよくわからない。一方で、少女はまるっきり人間に違いなかった。


 二人は一斉に駆け出した。ギエンネ・アダーの頂に雲は届いておらず、まばらな雪の下から黒々と湿った岩肌を剥き出しにしていた。その頂から駆け下りる斜面は切り立つ崖のようだ。ガラドリンは崖を転がるように落下していく。でこぼこの岩肌に頭をぶつけて跳ねるのだ。頭をぶつける度に岩が粉砕される。それで加速がついてぐんぐん落ちる。その速度はまさに転落だ。ドワーフたちの体は信じられないほど頑強だ。なかでも、頭頂の固さはこの世のどんな物質と比べても群を抜き、ドワーフの頭を破壊する手段は宇宙開闢以来、まだ見つかっていないという。その横で少女は二本の足で走る。その足が岩を蹴り飛ばして回転する。それもまた凄まじい速さだ。まるで内燃機関に繋がった連接棒が超速のピストン運動を繰り返しているかのようだ。この少女の名がチキタ。 二本の足の回転は小人の転落に後れを取ることはない。チキタは笑っていた。ガラドリンがこんなふうに頭をぶつけて落ちていくのを初めて見たからだ。転落しながらガラドリンはご機嫌だった。チキタもご機嫌だ。二人の望みがもうすぐ叶う。その瞬間がそこまで来ているのだ。

 しかし、このギアカンドを遥か遠い地表から駆け登ってきたのは彼ら二人だけではなかった。わずか数刻前まで、考えられない数の人間たちとの死闘を潜り抜けて来たのだ。チキタとガラドリンだけではない。彼らがまさに今日、この日のギアカンドの頂を目指して挑んだのだ。その多くが国を挙げて命運を賭し、巨大な軍事力を恃みに乗り込んできた者たちだった。それらは競い合い、時に助け合い、そして、時に殺し合いもした。彼らは国を傾けてでも、このギアカンドの、この瞬間に賭けたのだ。まさに巨人に会うために、それほどまでのことをした。だが、最後に勝ったのは、この二人であった。

 チキタとガラドリンが加速しながらギエンネ・アダーの谷底を突っ切ると、次にまた空に向かって反りあがる頂きを目指して駆けあがる。ところどころに散らばる渇いた雪を蹴散らしながら、幾度となく繰り返す山と谷の乱高下を乗り越える。それは、このギアカンドに臨んで何度も味わった退屈な行程だ。だが、この期に及んではかえって力を漲らせる。巨人が目の前にいるのだ。もう、残りの山を越えてしまえば、旅の終わりへ。少女は息を弾ませて胸に秘めた心の内をもう喉元に準備していた。

 ところが――。


 ガラドリンが上空を飛翔する不気味な影に気がついた。影が二人の頭上をすっ飛ばして、あっという間に先へ行く。

「おい!!」

 ガラドリンの激しい怒号。チキタに知らせる警報だ。だが、チキタも気がついていた。彼女もまた隣を走るガラドリンに影の飛来を知らせようと、同じだけ叫ぶところだった。二人の頭上を猛スピードで抜き去った影は風を切り裂き、地べたを走る二人をあざ笑った。浮かれた気分を一変させる飛翔体。それはドラゴンに似た恐るべき威容だった。


「ヴィブルだ!」


 ヴィブル!

 水平に広げた前足に皮膜を展開させて飛翔する驚異のトカゲ。その姿がドラゴンのように見えるから、その類と考えられていた。だが、そうではない。こいつは哺乳類の祖先から分かれた四足類で、収斂進化の賜物なのだ。“なり”はドラゴンよりも遥かに小さい。地表から目視する寸法が狂っていなければの話だが、そいつは確かに小さい。

「誰!?」

 今度は少女が叫ぶ。ヴィブルを操るのは人間のはずだからだ。そのヴィブルを駆って人間は幾万の彼方へ至る。それも、とてつもない速さで。

「デラコントだ!」

「あいつ!?」

 ドワーフはあっという間に小さくなっていくヴィブルの背に見覚えのある人影を見た。全身に金継ぎの装飾を施した鈍色の鎧に身を包み、その兜からは二本の角がキザっぽくひょろりと伸びる。その進路は紛れもなく巨人へ一直線だ。

 しかし、それは二人にとって、全く想像していなかった事態であった。なぜなら、人間が操る貧弱なヴィブルでは、決してギアカンドを越えることはできないからだ。ヴィブルはへたばる。役には立たない。だから、二人は徒歩できた。彼らだけではない。どんな軍団もヴィブルには頼れなかった。誰だろうと、いかなる状況も愚鈍な家畜に荷を積み、人を積んで触れるものすべてを根絶やしにしながらギアカンドを歩いて進んだ。それはまるで掟のように、みなでわきまえた最初のルールだったはず。

「何かやりおったな!」

 しかし、それを考えたところで、どうにもならない。

 デラコント。やつもまさに、この瞬間のために全てを賭けて争ったライバルの一人だ。

「急げ!」

「急いで!」

 ガラドリンもチキタも同時に急かし合う!

 だが、ヴィブルの方がはるかに速い。そんなことは火を見るより明らかだ。ヴィブルはなんら遮るもののない二人の頭上をすっ飛んで直進するのに、こちらは地面を走るのだ。どれだけ急ごうとも切り立つ峰と深くえぐれた谷底を交互に越えねばならない。ごつごつと出っ張る岩石たちに足を取られる。大地に横たわるもの全てが二人の邪魔をする。

「石を投げろ!」

 チキタは言われるより早くそこらに転がっているつぶてを拾うと、遠ざかるヴィブルめがけてぶん投げた。ドワーフはそのつぶてに驚愕した。とてつもない速度でぶっ飛んでいくからだ。華奢な少女の細腕からは釣り合わぬ得体の知れない剛力に推進力を得て、つぶてはヴィブルの速度を凌駕してたちどころに追いつき、そして追い越していった――。

 つぶては何ら役目を果たさず虚空に消えていった。

「下手くそめ!」

「うるさい!」

 ヴィブルはもう手に負えない距離まで飛んで行って小さくなってしまった。ガラドリンは走るのをやめてしまった。

「もう間に合わん」

 ここまで来て先を越される。それがどんな脅威か、ガラドリンには察しがついていたからだ。もちろんチキタも同じだった。その脅威は自分たちに襲い掛かってくる脅威ではない。そうではなく、自分たちよりも先に巨人のもとへ辿り着く者がいる。それが恐れていた最悪の脅威なのだ。

「走っても無駄だ」

 少女を突き刺す一言。それでチキタも足を止めてしまった。込み上げてきた焦燥に、胸の内に秘めたものも霧散してしまった。

 どういうことか。チキタの目的は巨人のもとにエルフの宣託を届けること。宣託とは予知のこと。紛れもなくエルフが見た未来。ところが、ヴィブルに跨り彼らを越えて先んじたデラコントもまたエルフの宣託を携え、巨人のもとに飛来した。両者に未来を託したエルフはまったく別のエルフだ。だから、両者が巨人に奉じる未来もまったく別のものになる。なぜなら、宣託には未来を思うままに変えようと望む者の欲が込められるからだ。これが脅威の元となる。

 チキタの望む未来と、デラコントが望む未来。二つの未来はどちらかが勝る。当たり前だ。同じ時間に別々の未来は存在できないのだから。ならば、争うしかない。呆けてはいられない。力づくで己の望む未来を出現させるしかないのだ。そして、チキタもデラコントも、望んだ未来が現実にならぬのを黙って見ている二人ではない。


 ところで、ここで一つ。とても平和的な解決策を提案してみよう。二人がそれぞれ別の未来を抱えて巨人の前に現れたなら、巨人が双方の宣託に耳を傾けた後で気に入った未来を選べばよい。それで恨みっこなしのはず。

 しかし、そうではない。この問題は無限に湧いては入り乱れる予知と、たった一つに収束する未来の煩雑さから生じる。先に宣託を披歴したものが巨人の機嫌を取るならば、巨人は後から来るものを拒む。その有り様は文字通り一顧だにすらしない。いくらでも衝いて出てくる予知を見境なく聞き入れていては、未来は必ずあらぬ方向へ捻じ曲がり、望んだ未来は霧散する。未来を知ることが、すでに未来を変節させてしまうということ、そして、現実になる未来はただ一つだということ、これらが未来へ介入する予知の鉄則として徒に振りかざせぬ不文律なのだ。であるから、複数の予知を一人の巨人の頭の中で交わらせるような真似は、結局は理想の未来を相殺させる忌むべき行いとして咎められる。これが宣託の献上に競争を生じせしめる原理だ。その競争に負けたエルフを巨人は虫けらと同じように踏み潰して殺す。だから、チキタは諦めるわけにはいかなかった。

「そんなわけない!まだ間に合う!」

 チキタが再び走り出した。ヴィブルに追いつくつもりだ。そうするより他にない。

「ばかめ!」

 ガラドリンも走り出す。だが、二人の胸に去来するのは絶望だけ。それでも、駆け出すより他にないのだ。


 巨人に近づくにつれ、馬鹿げた図体が少女の眼の前に迫ってくる。彼女が山々の突先に至り、視界が雲を抜ける度に、目を疑うようなものがそこにある。天にも届かんばかりの巨大な顔があるのだ。その姿こそはやはり超然たる力の化身、天をも穿つ巨体は大地を揺るがし、嵐を蹴散らす。

 その巨人の目の前にヴィブルが降りてゆくのを見た。巨人の注意を引けるだろう小高い山の頂に。チキタが怒声を発しながら駆け続ける。だが、そんな叫びも虚しく掻き消える。巨人の視線はその頂きに落ちていた。疑いようもなく、ヴィブルの乗り手が少女を出し抜き、巨人に宣託を披歴しているのだ。その宣託が巨人にとって耳あたりの良いものならば、それで終戦。もう争うことはできない。

 本当だろうか。それでもまだ一縷の望みがあるはずだ。デラコントが託された予知はどれほど巨人の気を引くだろう。彼が恃みとする彼の麾下のエルフの心眼は、巨人の信頼を勝ち取るほどのものを未来の中に見たか。そして、その未来は巨人が抱える問題を正しく解決できる?

 巨人の心を震わせる宝物に満ちている?

 もしも、そうではなかったら?

 つまり、彼の手土産が巨人に気に入られるかどうかだ。


 その時だ。巨人がのそりと動き出した。くつろいでもたれかかっていた背中が山の斜面から離れると、圧し潰されていた雪が一斉に剥がれ落ちて雪崩を打った。その雪崩がどれだけ恐ろしい破壊を生むかなど巨人にはどうでもいい。巨人が山脈を凌駕する巨体をぐらりと揺するだけで、大地に激しい地響きが拡散し、それがチキタの走る岩盤まで伝わり足を跳ね上げるのだ。地響きに掬われて転倒しながら、彼女はそれでも走る。そんなことよりも、巨人の挙動から目が離せなくなっていた。かと思う間に巨人が片腕をもちあげ、頭の後ろへ回す。それまで腰掛けていた峰の裏側にだ。すると、そこに立て掛けてあったのだろうとんでもなくデカい棍棒を掴み上げ、高々とそれを掲げるが早いか、デラコントが立つ山を一撃のもとに叩き潰してしまった!

「やった!」

 チキタが叫んだ!

「はっはー!!」

 ガラドリンもその後ろで歓喜の雄叫びを上げた。しかし、そんな場合ではなさそうだった。凄まじい衝撃が空気を破裂させて圧力の壁となり、チキタに激突しながら周囲の山々をぶち抜いていく。大地が一斉に地殻から剥がれて浮き上がったかのように激しく弾む。巨人の棍棒が生み出したのは、そんな激烈な一撃なのだ。ぶっ叩かれた山が砕けて沈むのとは裏腹に、無数の岩石と氷が跳ね上がる。それらが次の瞬間には瀑布のように空から襲い来る。少女は無数の岩石の雨あられと怒涛のような氷の雪崩に飲み込まれて消えた。辺り一帯が洪水に洗いだされたような有り様だ。巨人から次の破壊はなかった。それで目的を達したようだった。

 チキタの行方が知れなくなっていた。後から駆けてきたガラドリンは、見渡す限りの大地にうず高く折り重なった岩石群の下から少女を探す羽目になるのかと頭を掻きむしった。しかし、ガラドリンのすぐ傍で瓦礫が一つ、洪水の後のぐちゃぐちゃな雪の下から蹴り飛ばされて、チキタが這い出てきた。チキタは口から氷を吐き出した後、むせ返って咳き込んだ。

「やつがしくじったぞ」

 ガラドリンがニヤリと笑った。

「言われなくても」

 チキタはまとわりつく雪をほろって、髪の毛をぶるぶると振るった。

「ねぇ、見てよこのザマを」

「ふふふ。だが、わしらには僥倖だ。これで勝機があるわけだからな」

「まあね」

 デラコントに先を越されたときにはこの世のものとは思えぬ焦りが腹の底からぶち上って体温が上がった。それが一気に冷却だ。ドワーフが大きく膨らんだ鼻の穴からありったけの空気を追い出した。少女はそれを見て大笑いだ。何てことはない。取り越し苦労だとわかったからだ。邪魔者は死んだ。それでもう巨人と彼らの間に割り込むものはいない。勝利の道は再び目の前に開いた。

 ところが、ドワーフはふと気がついた。とんでもない破壊力を目の当たりにしたせいだ。その視線は、たった今、目の前の山一つを叩き潰した巨大な棍棒に釘づけになってしまった。背筋に凍るような悪寒が走る。


 次にあれを食らうのは自分たちではないのか?


 不穏が脳裏をよぎる。途端に顔が強張った。笑ってなどいられなくなったのだ。しかし、その隣でチキタはまだ大笑い。ケラケラと、デラコントの失敗を他人事のように笑っている。頭がおかしいのだ。この小娘は。そう思った。

「なに?」

 チキタがドワーフの胸の内を見透かした。

「潰されるって?」

「かも知れん」

「なんで?」

「なんでだと!?」

 ガラドリンは驚いた。

「たった今、目の前でやつが死んだ。貴様も同じ運命だ」

「そんなことにはならない。心配いらない」

「どうして言い切れる」

「絶対に納得させるから」

「そんなはずあるか」

 小人の頭に血が上る。顔面が紅潮し始める。

「もしもの時は逃げる。巻き込まれるのはごめんだ」

「はあ!? 笑わせないでよ。そんなつもりでここまで来たわけじゃないんだよ」

「だろうな。だが、わしはここまでだ。様子を見ていてやるから行ってこい」

「だめ。なんのために連れて来たんだよ。話を通して」

「音を出すコツなら教えてやる。まずはこうだ……」

「ちょっとやめて。それは後で教えてもらうから」

 チキタは小人の首根っこを掴んで持ち上げた。


 崩壊した山の頂は窪地のように湾曲していた。鋭利に突き上がっていた面影はなく、棍棒の撃ち込まれた形にへこんでいる。二人はその上に立ち、巨人を見上げた。少女は間近に見る巨人のすべてを凝視していた。雲の上に霞む巨体はさることながら、全身を観察してみても、その肖似性はまるで人間と違わないように見えた。だらりと垂れた頭髪は湿り気があって無造作に揺れている。素肌は刺青に満ち、武骨な戦士を思わせる。いい男だ。腰から下には精巧な鎧を留め金で固定して、革質に見紛う帯を巻いていた。それはいささか奇妙であった。誰がこのような一張羅をこしらえるのだろうかと。だが、そんな疑問は些末なことなのだ。これから起こる大事に比べれば、まるで取るに足らないこと。無用な雑念は脳内からすべて捨て去らねばならない。そうして臨まねば、やつのようにしくじる。今頃、デラコントは二人の足元でペチャンコだろう。


「遠い未来の話をよこせ」


 巨人が発した。その声がドスンと大気にぶつかると、密度を増した爆風がチキタの全身を激しく叩いた。たったそれだけで、そこら中の雲を蹴散らし、大地を震わせる。これでも生物。こんなものが生きてこの世に君臨しているのだ。ひとたび立ち上がれば、一挙手一投足が周囲の何もかもを大仰に揺さぶる。だが、そんなことは願い下げだ。ドワーフの頭の中は棍棒でいっぱいになっていた。あの棍棒に視線を囚われて、これ以上、巨人に身動き一つしてくれるなと、か細い念を送るばかりだ。棍棒は巨人の肩に担がれていた。そこからいつでも眼下に向けて振り下ろせるというわけだ。


 “遠い未来の話をよこせ”


 巨人は確かにそう言った。どういうことだろう。

 人間が巨人に未来を披歴するのは、その力の庇護を求めるためだ。庇護を求めるためなら目の覚めるような未来を説き、巨人に気に入られなければならない。そうでなければ相手にされまい。

 例えばこんな未来だ。


「あなたがギアカンドの山々に五体を投げ出し、大いびきで寝そべっている。そこへ、恐るべき轟音とともに巨大な隕石が突撃してくる。何も知らずに眠るあなたは不幸にも隕石の直撃を食って、その体に穴が開く。二度と目覚めることはない」

 あるいはこうだ。

「巨大な地震がギアカンドを破壊する。大地は真っ二つに割れ、巨大な裂け目にあなたは飲み込まれる。ギアカンドの底へと滑落するあなたを救い出せるものはいない」

 他にはこうだ。

「突如、大地の底にくすぶる瘴気が激しく噴き出し、あなたを侵す。それは毒の霧で、瘴気に毒された皮膚は瞬く間にしぼみ、瞳は破れ、全身の穴という穴から血を流す」


 このような災厄が巨人の身に降り掛かる。だが、未来が分かれば避けられる。知らされていれば災いとはならない。そして命拾いをする。巨人は感謝するだろう。狙いはそこなのだ。巨人に恩を着せて己の勢力に組み込む。その力はどれほどの軍隊も凌駕する。だから、国を傾けるほどの価値があり、競ってギアカンドに臨んできたというわけだ。

 だが、しかし……。

 そんな災厄など、そうやすやすと起こるはずもない。ギアカンドも大抵の日々は平凡だ。巨人とともに泰然として動かず、悠久の惰眠を貪るばかり。人間がその僅かな寿命を幾ほど繰り返そうが、ギアカンドをひっくり返すほどの天変地異に巡り合うことなどない。巨人を脅かす災厄など、とても起こりはしないのだ。それなのに、人間はやってくる。そして、こんなふうにのたまう。

「今日という日は、貴台と我が帝国の悠久の和平を実現する最良の日となりましょう」

「貴台! 我らに目を留めたその瞬息に、我ら皇国の命運が変わりましたぞ」

「今宵こそが大いなる王朝の歴史の一歩なり。貴台が想像するより遥かに強大な国が誕生するでしょう」

 人間の国家など、いくつ代が変わろうと巨人の寿命に比べれば、ひと眠りの間に過ぎ去る儚いもの。それでも、巨人を味方につけたいとの思惑を持つ彼らは、己が生きているうちに巨人を振り向かせたいのだ。だから、人間たちがもたらすのは近い未来ばかり。そして、何事も起こらない未来ばかり見ては臆面もなく得意になる。そんな輩があまりに多すぎる。だから叩き潰した。巨人はイラついていた。憩いの時間にまどろむも、それを妨げてやかましく喚くくせに、もたらす未来には何も心躍るものが入っていない。だから機嫌を損ねる。そんなやつらを叩き潰して何が悪い。当たり前だ。人間などただの虫けらなのだから。


 それができないのなら、お前たちの未来を心配するべきだ。


 近い未来はうんざりだというわけだ。ガラドリンの心はますます穏やかになれない。チキタの顔をちらりと見る。この小娘が持ってきた未来の中身を聞いていなかったからだ。何を伝えるつもりでここまで来たのか。いまさらながらに気を揉む。それも激しい焦燥に突き動かされ、死の瀬戸際に動悸を激しくさせながら。

 チキタはこう返した。

「近い未来の話を持ってきたの」

 ガラドリンは腰が抜けるかと思った。

「正気か貴様!!」

 ドワーフが固まった。あまりのことに怒りと困惑のないまぜになった顔で少女を睨みつけた。

「大丈夫。期待に沿えるから」

「承服しかねる!」

 ドワーフはたじろいで、そぞろな声で抵抗する。この期に及んで近い未来の話だと?わずかでも期待したのが間違いだった。最も恐ろしいことが現実になる。こんなことになるためにギアカンドを越えてきたのか、この人間の小娘は。

 ドワーフの口の中はカラカラに乾いていた。全身に緊張が走る。ギアカンドを越えてようやく辿り着いた巨人の前で、言うに事欠いて「近い未来の話」を持ってきただと?

 ドワーフは巨人の様子に釘づけになる。棍棒は揺らいではいないか?背もたれから背中を剥がしてはいないか?体を前のめりにして、顔を突き出しているのでは?


 狙いを外さぬように。


 そんな気配を察知したなら、何を置いても逃げ出さねばならない。

「他の予知は預かってない」

 少女はきっぱりと言った。

「あんまりだぞ。またの機会にせんか?」

「無理だよ」

「無理なことあるか。わしは貴様の宣託を巨人に伝える気はないぞ。それが近い未来の話だと知れた瞬間、やつの鉄槌が振り下ろされるんだ。そんなのはごめんだ」

「待ってよ、それじゃあ約束と違うじゃん。大事な未来なの」

「大事なもんか。どうせろくでもない。どうせやつが聞き飽きた話を貴様もするんだ。いいか、よく聞け」

 ガラドリンの眉間にはこれ以上ないというほどシワが深く食い込んでいた。

「あの巨人が何を聞いてうんざりしているか貴様は知らんのだ。ばかな人間どもが巨人を喜ばせるつもりでここまでやってきながら、本心は己の欲望を満足させるためにこの宣託というやつを悪用する。やっていることは巨人のご機嫌取りだ。そんなものはお見通しだぞ。貴様が恃みにしているエルフも何も変わりはせん。どっちも間抜けだ。後生大事に預かった予知など突き返される。やつを見ろ。あのバカでかい巨人の前では人間など虫けらに過ぎん。虫けらを踏み潰して後悔したやつなどいないんだ。やつが退屈した顔を見せたら棍棒の動きに気をつけろ。ギアカンドを越えてはるばるやって来て貴様が貰うのは契りではない。あの棍棒だ。あれが貴様の頭に逃れようのない一撃を食らわせてペチャンコだ。命乞いの暇はない。不埒な火遊びの代償だ。そして、それが貴様が見た最期の景色になる。このわしにとってもな」

 少女はジロリとドワーフを見た。

「ねぇ、腹をくくってよ」

「何だと!?」

 ガラドリンが言葉を詰まらせた。喉に釘が刺さったようになって、出かかった言葉が引っ込んだ。

「あたしは逃げないから、あんたも逃げないで」

 チキタがそんなことを言うのだ。ガラドリンがチキタの顔を見る。少女の視線がじとっと小人を見下ろしているのに気づき、それで肝が据わったのか、ガラドリンの頭の中に昇り始めた血がすっと引いていく。

「腹はくくっとる。ばかめ」

 ガラドリンの顔つきが変わった。憑き物が落ちたように焦燥の色が消え失せた。すると、ガラドリンはこう言うのだ。

「貴様の好きにしろ」

 それで分厚い唇は力強く真一文字に結ばれた。

「ありがと」

 チキタがニコリと笑う。そして巨人に向き直った。


 手順はこうだ。少女が声に出した宣託をドワーフが奇妙な音に変えて巨人に伝える。ところどころは何の変哲もない発話だ。言語の違いというだけの箇所と、少女が発音するには込み入った練習が必要な音とが混ざり合っている。もしかしたら、人間の喉では決して出せない音もあるかもしれない。巨人たちの言語。それで意思を通わせる。これから少女の口から語られること、それは目の前の巨人の身に起こる近い未来だ。これまでどれほど多くの未来を人間たちに告げられてきただろうと関係ない。少女が預かった宣託こそが現実になる。なぜなら、他の宣託などどれも偽物。力のないエルフが慰みに吐いた戯言だ。だが、少女が信じるエルフこそは本物だった。

「何でも来い。もう後には引けん」

「そうだね。それじゃあ、こう伝えて。今から14秒後にあの巨人が死ぬ」

「何だと!?」

 ドワーフが驚いた。

「やつが死ぬ?」

「そう」

「14秒後?」

「そう。だから早く。あと9秒」

 途端にドワーフの顔が怪訝に曇る。口は開きかけたが、唐突過ぎる話に喉が閉じてしまった。巨人語が出てこない。少女の顔を見返す。

「それをどう伝える?」

「頭をかがめて。あと3秒」

「何だって?」

 巨人の背後だ。何もない空の向こう、そこに妙なものを見つけた。何かが飛来してくる。それは全身から炎を噴き出している!

 その物体を凝視せざるを得なかった。ドワーフが息を呑む。その瞬間だ!

 一気に腹の底から込み上がるエネルギーの爆発に押し出されて、ドワーフはこの世に生を受けてから最もデカい声で叫んだ!

「頭をかがめろーーーー!!!!」


 太陽の光を全身の鱗で跳ね返し、巨大な翼を格納した姿勢は流線型となり、まるで隕石のごとく轟々と燃え盛りながら迫り来る。深紅に輝くそいつは――。


「ドラゴンだーーーー!!!!」


 凄まじい物体が巨人の背後から唸りをあげて突撃してくる!

 恐るべき速さだ。まったく遮るもののない虚空をつんざいて、瞬く間に巨人を強襲する!そいつは本物のドラゴンだ!!

 巨人の頭を食いちぎらんと大口を開け、この世に噛み砕けぬもののない身の凍るような漆黒の牙を解放していた!

 だが、それを巨人は間一髪で躱したのだ!

 首をかがめて!

 その瞬間が僅かにでも遅れていたならドラゴンの牙は巨人の頭を捉えて咬み砕き、首からぶっちぎれていたはずだ。巨人が運命を回避した。ところが――。

 巨人の体がふわりと浮き上がる。自ら腰を上げたのではない。巨人の頭を咬みちぎり損ねたドラゴンがすれ違う刹那に強靭な尻尾を巨人の体に絡みつかせて捕らえ、全部まとめて掻っ攫ったのだ。浮き上がった巨人の全身が伸びあがる。その全貌を目の当たりにして、ドワーフも少女も驚愕した。とにかくデカい。恐るべきドラゴンの登場に恐れおののいただけでは足らず、そいつに釣り上げられようとする巨人もまた、二人の想像を超えて遥かにデカいのだ。

 巨人が浮き上がると、伸びる足の先が少女たちの立つ小高い山を激しく蹴飛ばした。まるで砂山を蹴りつけたかのように少女もドワーフも瓦礫も全て、何もかもが山もろともぶっ飛んだ。ぶっ飛んだ全部が背後に聳える峰一つを軽々と越え、それらを一緒くたにして谷底へぶちまけた。それだけでは終わらない。巨人が宙に釣り上げられた拍子に手からすっぽ抜けた棍棒が放物線を描きながら空中で回転しているのだ。棍棒は少女とドワーフを追いかけるように同じ軌道を飛んでいる。決して狙って放り投げられたわけではなかったのに、行き着く先はやはり同じ谷底だった。鋼鉄で造られた棍棒は山を打ち砕く。そんなものが、なすがままに吹っ飛ぶ二人を追いかけ、寸分狂わぬ正確さで見事に命中するのだ。そして、少女も小人もまとめて潰して地中深く埋めてしまった。


 果たして、どちらがデカいのか。巨人の大きさは目を疑うほどだ。山にもたれて寝そべるぐらいにデカい。だが、その巨人をドラゴンは尻尾の力だけで軽々と空へ連れ出した。巨人の体重など無きがごとくにだ。尻尾に担ぎ上げられた巨人が宙に引き回されながら、その肉体が炎に焼かれ始めていた。ドラゴンの鱗は激しく燃えているのだ。尻尾は巨人の背中に張り付いて脇から胸に巻きつき、首まで絡みつく。それが絶え間なく炎を噴き出している。一方で、巨人の半身は刺青を入れただけの剥き出しの皮膚に過ぎない。巨人は棍棒を落とし、抵抗できる手段は乏しい。しかし、代わりに自由になる両腕でドラゴンの尻尾をむんずと掴むと、力の限り絞り上げた。ドラゴンが悲鳴を上げる!それと同時に尻尾のありとあらゆる箇所から猛烈に炎を噴き出した。脊髄反射と繋がった反撃の火炎放射だ。巨人はそれで怯むことはない。堰の決壊のごとく溢れ出て来る炎などものともせず、さらに痛めつけようと掴んだ尻尾にがぶりと噛みついた。ドラゴンの悲鳴は激しさを増し、全身からあらん限りの炎がほとばしる!なりふりなど構ってはいられない。巨人は自身の体が燃え尽きるより早くドラゴンを締め上げるつもりだ。これでは堪らない。ドラゴンはこの巨大な獲物が黒焦げになるまで待ってなどいられず、後ろ足で巨人の後頭部を掴むと、全身を空中で一ひねりしたかと思う間に、一気に急降下を開始した。暴れる獲物をギアカンドの大地に叩きつけるつもりだ!

 旋回するドラゴンの後を炎が弧を描く。そして未曽有の巨大な物体同士が絡み合い、塊となった炎と肉体が同時に大地に激突した。その衝撃たるやギアカンドに並み居る峰々を岩盤が跳ね上げ、空中に突き上げられた尾根が崩壊しながら大地に散らばった。叩きつけられた巨人が弾む!ドラゴンは全身からありったけの炎を噴き出し、眩い閃光を放射して光り輝く。一瞬のうちにこのギアカンドに恐るべき超高熱が出現し、数千万年の氷の世界を一瞬にして消し去った。

 解放された巨人が立ち上がる。ドラゴンも長い胴をのたうち回らせて体勢を立て直し、さらに両翼を大仰に展開させた。すると、ドラゴンの全高はまるで巨人の数倍に肥大したかのようで、天空を覆い尽くさんばかりに巨人の視界を侵食してしまった。それは目眩ましだ。巨人の注意を引きつけ、ギアカンドの谷底に這わせた尻尾を巨人の足に忍ばせる。その先端がくるぶしを捉えるやいなや、巨人を一気呵成に引き倒した。転倒する巨人、その巨体に素早く乗り上げるドラゴンが全身のうち最も強靭な尻尾の付け根を大地に押し付けて上半身を高々と持ち上げた。巨人に覆い被さる!

 ドラゴンの強靭な鉤爪が、抵抗する巨人の腕や足の皮膚をえぐり、引き裂かれた刺青から噴血を飛び散る。巨人とドラゴンの殺し合いだ。その有り様は形容しがたいほど恐ろしく、彼らの周囲は地上に出現するありとあらゆる天変地異をごった煮にしたかのようだ。そんなところで矮小な生き物が逃げ遅れようものなら、たちどころに飲み込まれ、踏み潰されるだろう。その戦いを凝視することすら憚れるのだ。


 大地の激しい震えがドワーフを宙に弾ませていた。ドワーフは生きていた。巨人の棍棒が空から降ってきたときは肝を冷やしたが、白亜の空模様を埋め尽くして迫る黒い影に気がつき、死に物狂いでその場から逃れていたのだ。人間の世界で建造されたいかなる要塞すら一撃で破壊するだろう桁外れの棍棒が大地に激突した瞬間、地面がドワーフを置き去りにして遠ざかり、ドワーフは空中で足をバタつかせる格好となった。その直後に、再び大地が物凄い勢いで帰ってきて、両者は乱暴に鉢合わせとなった。ともかく間一髪で難を逃れた。しかし、巨人とドラゴンが地表を破壊しながら殴り合っているのだ。大地には亀裂が走り、地震は激しさを増す。地表を地表たらしめる硬い岩盤がやすやすと砕け、ドワーフの目の前の大地が丸ごと引っこ抜かれたように競り上がると、次の瞬間にはそれが奈落の底へと沈みこむ。どこを見ても地の果てまで引き裂かれたような巨大な渓谷が次から次に現れる。その巨大な裂け目には、まるで底がないのだ。一歩でも踏み間違えれば二度と這い上がることはできない。ドワーフはとても立っていられず四つん這いになる。絶え間なく続く地震に捲れあがっては弾む砕けた岩盤に顔面を何度も打ちつけた。そればかりではない。焦げつくような灼熱に目を開けていられないのだ。瞼を閉じていなければ目玉が高熱に縮んで押し込まれ、溶け出してしまいそうだった。ドワーフのつぶらな瞳を侵すもの、その正体は激しく吹き上がる毒の霧だ。霧は生命を脅かし、皮膚は瞬く間にしぼみ、瞳を破り、全身の穴という穴から血を流す。そんなものがあらゆる場所から噴射して、地表に充満し始めていたのだ。ドワーフの体内を尋常ではない高熱が蝕んでいく。

 ところが、その高熱がにわかに緩み始めていた。噴き出す瘴気が尽きようとしていたのか。それとも、灼熱の根源であるドラゴンの猛勢が衰え始めていたのか。そうではない。ドラゴンの鱗から無限に溢れ出る超高熱の炎のために大気が膨張する。その激しい熱波に弾き出されて消え失せたはずの冷気が仕返しせんと、ギアカンドの全土から凍てつく暴風を呼び寄せ、波状攻撃を仕掛けていたのだ。ギアカンドに充満する灼熱を相克して圧し潰そうと無尽蔵に立ち昇る雷雲が唸りを上げて肥大化していく。天空にこの世ならざるバカげたほど巨大な乱気流の渦を生み出していた。

 少女の気配がない。哀れにも棍棒の下敷きだ。巨人やドラゴンがどれだけ暴れようとも谷底に突き刺さった棍棒はピクリとも動かない。それほど重い鉄塊なのだ。巨人の悲鳴がギアカンドをつんざいた!ドラゴンの恐るべき牙が巨人の左腕に咬みつき、その手首から先を食いちぎったのだ!

 ついに巨人がドラゴンの餌食となった。血を噴き出しているのは巨人ばかり。ドラゴンの表皮は美しく鱗が揃い、欠けることなく炎を照り返して輝いている。巨人とドラゴンの勝負が決しようとしていた。

 ドワーフは逃げ出す準備をしていた。盛り返す冷気のために辺りから高熱が退縮し始めていた。まぶたは僅かに開けられるようになっていて、ここから一目散に遠ざかろうと安全地帯を探していた。だが、とてつもない暴風のせいで巻き上げられた瓦礫や粉塵が真っ黒に視界を覆い潰してしまっていた。その時だった。火の粉と焦げついたなにもかもが荒れ狂う嵐の中でドワーフの僅かに開いたまぶたの奥のつぶらな瞳が見たもの。それはぐらりと揺れる棍棒だった。棍棒が揺れた矢先に、今度は垂直に浮き上がる。大地と棍棒との間に僅かな隙間が生じる。そこに少女が立っていた。少女は潰されたわけではなかった。いや、そんな話ではない。少女が全身から蒸気を噴き上げながら立ち上がり、巨人が持ち上げてズシリと重たい棍棒を両手に高々と支えて持ち上げているのだ。大地とそこに浮かぶ棍棒を繋ぐ点、その小さな点、それがこの少女であった。今の今までマグマに沈んでいたかと見紛うほどに全身が激しく煮えたぎっている。恐ろしいほどの熱と汗をほとばしらせて。

 血の滾り?筋肉の振戦?そんなものではない。まるで炎が噴き出しているのだ。

 ドワーフは立ち上がってきた少女の背中を見ていた。ドラゴンよりも、巨人よりも、この少女を見ていた。

 その少女が走り出す!

 歯を食いしばりながら雄叫びのような唸り声を吐き出し、棍棒を頭上に掲げたまま谷底から山頂へ、怒涛の如く駆け上がる!ドワーフは何が起こっているのか分からなかった。少女が巨人の棍棒を担いで目の前から遠ざかって行くのだ。もはや何が現実なのかも分からず、考えるのをやめてしまった。

 少女は頂を踏みつけた。華奢な体から発揮されるすべての力が棍棒に注ぎ込まれる。頂を踏む足にすべての体重が乗る。全身を血液が爆速で駆け巡る。沸騰して暴れるすべての血が秘められた馬鹿力を残らず使い切るため、ありとあらゆる細胞を総動員せんと全身に稲妻を走らせる。心臓が数倍に膨張すると、少女の肋骨ははちきれんばかりに押し出され、それらを繋ぎ止める胸骨が限界に達しようとするその時、棍棒に食い込む指先にすべての力が集まった。そこから狙いを定める。ぶん投げるのだ!この棍棒を!

 標的は巨人か、それともドラゴンか。巨人ならば棍棒を投げ渡し、ドラゴンを殴らせる。そうでないならドラゴンに直撃させるかだ。迷っている暇はない。

 ドラゴンにぶつける!

 少女の脳内にはっきりと浮かぶ光景があった。持ち上げた棍棒をあらん限りの力でぶん投げると、とてつもない速度ですっ飛んでいくのだ。それがドラゴンの頭を見事に捉える!巨人に最後の一撃を食らわせようと襲い掛かる邪悪な竜の、頑強な鱗に覆われたその首を寸でのところでぶち破る。棍棒は肉を引き裂き、骨を砕いて首の先から頭を奪い去ってどこまでも飛んでいく。指先に籠る力が満ちていくほどに、その光景が力強く輪郭を得て、疑いなく現実になると確信させた。

 少女がカッと目を見開いた!

 その手から放たれた棍棒がとてつもない速度でぶっ飛んでいく!!

 それは驚天動地の投擲だった。ぶん投げられた棍棒に、ありとあらゆるものを打ち抜いて木っ端みじんにする破壊力が込められているのだ。

 棍棒はとてつもない速度でぶっ飛んでいく。華奢なはずの少女にはまるで釣り合わぬド迫力の底力が、棍棒に得体の知れない推進力を与え、瞬く間にドラゴンに迫り、その鼻先をかすめて目の前を通過していった。

 棍棒はドラゴンの首を回避して、まるで少女の意図したところへ飛んで行くのではなかった。


 巨人にはもはや反撃の術はない。生身の皮膚と肉は、堅牢な鱗に覆われるドラゴンには太刀打ちできない。武器はないのだ。ところが、その巨人の手にどういうわけだか、あの棍棒が転がってくる。少女のぶん投げた棍棒はドラゴンの鼻先をかすめて外れ、ギアカンドの巨大な一座アバラク・アダーの頂上に激突してから跳ね上がり、その斜面に墜落して転がり、ドラゴンに組み伏せられた巨人の頭の真横を通過すると、まだ食いちぎられていない右手にピタリと止まって指先に触れた。棍棒が巨人の手に収まった!

 ついに敵の鱗も鉤爪もまとめて粉砕する武器が巨人の手にしっかと掴まれた。地の底から漲るような力が巨人を奮わせて、棍棒はすぐにドラゴンの鼻っ柱を叩き殴った。それで、この恐るべき捕食者を引き剥がして巨人が立ち上がる。満身創痍となって全身から血を噴き出すが、ドラゴンも仰け反って目を回している。もう一撃食らわせようと棍棒を振りかぶると、それを察したドラゴンが殴られたばかりの鼻先を巨人に向け、大口を開けたのだ。その喉の奥がギラギラと光り始めていた。

 火炎ブレスの前触れだ!

 巨人は棍棒を宙に放ってぐるりと回転させた。落ちてきた棍棒を逆さに掴んで柄を立てる。つまり、その細長く鋭い柄の先端をドラゴンの喉の奥へ突っ込んだのだ!


 大口を開けたドラゴンが喉に棍棒をねじ込まれ、噴き出し始めた炎が口の中で行き場を失った。火炎ブレスが大爆発を起こす!

 真っ黒い煤だらけの牙が飛び散り、ドラゴンが身悶えする。喉を塞ぐ棍棒を取り除こうとするも、短い両腕は長い首の先端にくっついた頭に届かず、みっともなくバタつくばかりだ。巨人は片足を振り上げると、ドラゴンの喉に刺さった棍棒を渾身の力で蹴り抜いた。その威力はドラゴンの喉を突き破って後頭部を破壊するのに十分だった。

 それきり、ドラゴンの全身から噴き出す炎が嘘のように鎮火すると、最後に立っていたのは巨人であった。


 ギアカンドの空が火の粉に埋め尽くされていた。ドラゴンの体から剥がれた鱗が命の残り香のように燃え尽きながらチキタの視界に降り積もる。彼女がたたずむ頂にガラドリンも辿り着く。チキタは燃える空を眺めながら呆然と立ち尽くしていた。その体からゆっくりと熱が失われていく。隣でガラドリンも同じ景色を眺めた。火の粉の吹き荒ぶ空だ。その視線の先に、巨人が立っていた。

 巨人は大地を見つめている。雲の下に横たわり、もう息を吹き返すことのなくなったドラゴンを見下ろしているのだ。死ぬはずだったのは巨人の方だ。だが、代わりにドラゴンが死んだ。このギアカンドで生と死の交換が行われたのだ。しかし、これは果たして「正しい」未来なのだろうか。ドラゴンはその凄絶な力で何かを抑えつけていたかも知れない。死ぬはずだった巨人はこれからどれほどの混乱を世界に撒き散らすだろう。乗り換えた未来の、その先に起こる災厄は次に誰を殺し、誰を生かすことになるであろうか。それはまだ誰にも分からない。だが、全ての生命が、全ての物質が、これから新たな世界に足を踏み入れるのだ。

「未来を変える。それで心を苛むらしい」

 ガラドリンが話しかける。

「当たり前だ。己のせいで全ての未来が乗り換えるのだ。これから起こる何もかもに責任を負うつもりになるからだ。事の大きさに耐えられなければ死よりも苦しい激痛を味わう。後戻りはできん」

 ドワーフがチラリとチキタの顔を見る。すると、チキタはうなずいたかどうかわからない顔で、目線だけを返してこう言うのだ。

「少し寝させて」

「何だと?」

 ガラドリンは驚いた。チキタはそれだけ言うと、その場でペタンと座り込んでしまった。肩や頬にあたる火の粉など気にも留めない。少女は力尽きて死んでしまいそうなほど衰弱したのだろうか。ガラドリンの驚いた顔に振り返りもせず体を横に投げ出して倒れ込んでしまった。

「巨人とは話さんのか」

 ガラドリンが聞く。

「うん。もう巨人と話すわけじゃない」

 チキタがそう返す。

「そんなわけあるか」

 巨人の命を救ったのだ。望むままにその庇護を得られるだろう。それが人間たちの願いではなかったか。それなのに、もう話すことはないと?

 それで、代わりにこう言う。

「もう帰っていいよ。ありがと」

 それがどうにもぶっきらぼうなのだ。だが、この少女はやはりこんな性格なのだ。ガラドリンはもうどうとも思わなくなっていた。

「貴様はどうする」

「あたしも帰る。でも、ちょっと疲れちゃったから」

 それから彼女の瞼はピタリと閉じられた。ギアカンドのど真ん中。巨人とドラゴンが死闘を繰り広げた矢先の、まだ空から無数の炎の塊が降りかかる恐ろしい世界で、少女はぐったりと曲げた頭を固い岩にごろんと乗せた。

 ドワーフはしばらく様子を見ていたが、少女はそれっきり動かなかった。本当に眠ってしまったのだ。

 嵐が静まりつつあった。うず高く巻き上がって絡み合う雷雲も失速しながらほどけていく。穏やかな空に落ち着こうとしているのだ。


 ――――


 未来を予知する。そのような力がどうしてエルフにはあるのか。それは、彼女たちが矮小で貧弱で、それでいて驚くほど長寿であるせいだ。小さくて弱い生き物ならいくらでもいる。彼らは捕食者に食いつくされぬほど膨大に子を産み、種を繋ぐ。虫けらたちはそのようにして戦う。命は短く、生き様は刹那的だ。だが、エルフは違う。彼女らの寿命は遥かに長い。どれだけ長いか皆目わからない。その命の尽きる死に立ち会えるもののないほどに永い。それでいてエルフはまるで子を産まぬから、気の遠くなるほど長い寿命を孤独に生きていくのだ。だから、彼女らが種を繋ぐためには虫けらとは違う手を打つ必要があった。

 それはエルフの予知から始まった。

 初めは空気に紛れ込む異質な分子を感じ取っていただけかも知れない。鼻の奥の鋤鼻器が捉える苦い匂い。エルフらを不快にする匂いの後には必ず死が訪れる。それはエルフを殺す死だ。ときに荒ぶる悪鬼に引き裂かれ、ときに邪悪な獣に食いちぎられる。殺意はたちどころにエルフを弑逆の渦に放り込み、彼女たちは惨たらしい暴力に悲鳴を上げるだけ。非力なエルフに復讐の術はなく、抗うことすら適わない。エルフは逃げ出した。誰かがその匂いを吸い込んだのなら離れねばならない。どこまでも遠く、あの匂いの届かぬどこか知らぬ地へ。だが、わからなかった。苦い匂いはどこまでもエルフを追い続け、心をえぐり続ける。その後には必ずエルフに死が待っていた。まるで不吉な前触れにざわめく悪寒のごとく。

 この匂いの正体。それは彼女たち自身の血の匂いであった。己の体から滲んで垂れる赤い血だ。その血の匂いに触れた時、それこそが災厄の前触れにざわめく苦い匂いなのだと気がついた。血を僅かにでも垂れ流せばたちどころに死ぬエルフ。その死を免れて辛うじて生き延びることのできたエルフだけが不快な匂いの正体を知った。

 エルフを殺すどの死より、彼女たちを最も恐怖させたのは己の血の匂いとなった。それが体を震わせ、脳を委縮させた。なのに、いつしかこの不快な血が災厄の前触れを捉えるのだと知った。未来を見でもせねば生き延びられないエルフが、まさに彼女たちがそう悟った時、その本能に超常の領域を開かせた。未来に起こる幾条もの残酷で、惨たらしく、暴虐で、不条理で、そしてまばゆい景色がエルフの脳裏に映し出されたのであった。


 どれほど時間が過ぎただろう。ギアカンドを覆い尽くしていた雲はなだらかに横たわり、無数の稜線に静かに垂れかかる。火の粉は降りつくしたらしい。あの日の痕跡はもうどこにも見つけることができなくなっていた。眠りについた姿勢のまま、少女の瞼だけが開く。少女の名はチキタ。彼女がこのギアカンドで巨人の命を救い、恐るべきドラゴンを返り討ちにした。いや、返り討ちにしたのは巨人だったが、それを少女の奇っ怪な馬鹿力が援けた。そのチキタにはやはり奇っ怪な連れがひっついて来ていた。ドワーフ族の小人だ。この小人がいなければ、それもまた、まるで違う結末になっていただろう。しかし、彼女と運命を共にしたその小人ももういない。このギアカンドの頂で名残惜しくも最後の挨拶を交わして別々の道をゆくこととなった。いずれ、どこかで再会することがあるだろうか。いや、チキタという少女はそんな日を待ち望んだりしない。これから少女は、まだ未知に溢れた世界に向かって、この最果ての地から踏み出し、どデカいひのき舞台へと歩みを進めるのだ。小人の一人や二人、再会するかどうかなど露ほども気にはしない。そんなことにはまるで頓着しないのだ。そればかりではない。思い返してみれば馬の合わないやつだった。憎まれ口や悪態の絶えない、いけ好かないやつだった。人間を見下していて、とくに若い娘は何につけても経験不足だと笑いものにする。いつでも居丈高に振る舞い、ちびのくせに自尊心だけは天に昇る勢いだ。そして、そういうのは顔に出るもの。ドワーフから滲み出る偏屈。やつの顔はまさにそういう顔だった。

「おい」

 チキタが振り向いた。そして驚いた。後ろからその偏屈な顔が話しかけてきたからだ。ドワーフがまだそこに立っていた。煤に黒ずんだ顔もそのままにして。

「どうしたの?」

 ドワーフと目が合う。もう帰ったと思っていた。

「このまま捨て置けはせん。貴様がここから立ち上がって帰るのを見届けてからだ」

「えぇ?」

 チキタはまた驚いた。

「柔な人間の小娘が無防備に寝ているんだ。何があるかわからん」

 少女は呆れたように笑った。

「ないよなんにも。こんな所」

「そうとも限らん」

 また笑う。

「あたし、どれだけ寝てた?」

「七日だ」

「そんなに!?」

 チキタは素っ頓狂な声を出して固まってしまった。

「じゃあ、あんたは七日もそこに突っ立ってたの?」

「まさかな」

 ガラドリンは真顔になって答えた。

「その辺を少し歩いた」

 二人の視界には、毛羽立つ絨毯のような雲が地平線まで延々と伸びるだけ。そこに巨人の姿はなかった。雲の下の谷底にはまだドラゴンが横たわっているのだろうか。そうではなかった。

「貴様が寝ている間に起こったことを話してやろう。嵐が鎮まると、巨人は腰を落として雲の底に沈むドラゴンに触れていた。巨人はそのまま動かなかった。ずいぶん長い時間だ。わしにとってはな。巨人にはほんの一瞬の事だったかも知れん。だが、酷く印象深い光景に思えた。その後だ、巨人がドラゴンをどこかへ引きずっていったのは。やつがあのドラゴンをどうするかは知らん。だが、それをどうしようとも、巨人のあの姿はわしの脳裏に焼きついた。他者の死を悼む姿だ。似ているのだ、巨人とわしらは」

 チキタは話を聞いていた。

「巨人は情け容赦のない悪鬼や狂った獣ではない。巨人が一人死ぬぐらいなら、代わりにドラゴンが一匹死んだ方がこの世はいくぶんマシになる。そう思わんか?」

 ガラドリンがチラリとチキタの顔を見た。そして続ける。

「そうだとすると、わしらが七日前にやった事は正しかったと確信する。貴様の行いのことをだ。未来を変えることが必ずしも正しい結末になるとは限らん。貴様の愛しいエルフもすべてを見通しはせん。会ったことはないが、そういうものだ」

「うん」

 チキタはうなずく。

「だが、それでも正しいのだ。なぜなら、生きるということは誰かの未来に大人しく収まってじっとしていることではないのだからな。自分が信じる未来があるのなら、気に入らんものはみんな蹴散らしてしまえ。それでこそ生きるということだ。それでこそ貴様だ。わしはそう信じる。うまく行くさ」

「そうだね」

「そうだね? 何だ、それだけか」

「なにが?」

「少しぐらい成し遂げたことの大きさを自慢してみせろ」

「あはは、別に」

「別に、か」

「そりゃあ、うまく行ってよかったよ。でも、自慢することじゃないでしょ?」

「なるほどな、やはり貴様はそういうやつなのだ」

 ガラドリンが笑った。

「はははは!」

 チキタも笑った。

「あははは!」

 二人とも極限の標高の、乾いた寒空の下で大声を張り合うように笑い合った。それは、二人のこれまでの旅の道中からは想像もできない光景であった。

「人間ではないな」

「へい?」

 突然、ガラドリンが妙なことを言う。チキタは意表を突かれて変な声が出た。ドワーフの顔には険しさが戻っていて、少女を睨みつけている。困惑したチキタは笑うのをやめてしまった。ガラドリンも笑うのをやめていた。

「棍棒をぶん投げたぞ」


 ――――


 それは、まるで話の語り手が物語の変わり目にするような変節だった。

「あれが人間のすることか」

 ガラドリンが穏やかな空気を一変させて、険しい顔を向けた。

「そもそもの話だ。巨人の庇護を求めてやって来ただと? バカも休み休み言えよ。必要あるまい。巨人の庇護など。山ごと蹴り飛ばされても傷つかん。巨大な棍棒の下敷きになっても潰されん。挙句の果てにはそいつを持ち上げ、ぶん投げた。それで、こうして笑っとる。そんなやつに巨人の庇護はいらん。好き勝手に生きられるんだ。誰に守ってもらうまでもなくな。そうだろう? だが、それだけではない。あの巨人だ。あの巨人はドラゴンを返り討ちにしたが無傷ではない。体中を切り裂かれ、左腕を失った。あれほどの傷を癒す術はこのギアカンドにはないだろう。ドラゴンは死んだが、やつもじきに死ぬ。今頃は虫の息だ。そんなやつに何ができる。何もできやせん。何もな。これはおかしな話だ。貴様は巨人の未来を変えるために来たはずだ。それなのに、結局は巨人は死ぬのだからな。つまりはこういうことだ。貴様は巨人がどの道死ぬと知っていたのだ。こうなると知っていながらここへ来たのだ」

 そこまで言うと、ガラドリンは目の前のチキタの回答を待つ。だが、チキタはニヤリと笑った。この狷介なドワーフの態度に合点がいったからだ。やはりこんな性格なのだ、この小人は。チキタはニヤついた顔を崩さずに、ドワーフを見下ろしている。そして、こう言い返すのだ。

「別にあんたたちを騙したつもりはないよ」

「そうだろうな。わしもそう思っとる。貴様が隠しごとをしたり、嘘をついたりしているとは思わん。だが、疑問は湧いてくる。それも一つや二つじゃない。無数に、腹の底から止め処なくだ。だが、わしはそれを貴様に尋ねはしなかった。聞けば未来に障るからだ」

「そうだね。ありがと」

「ふふふ」

 ガラドリンが笑う。チキタも笑う。

「それで?」

「何?」

「怒ってるの?」

「何だと?」

「話が長いよ」

「あん?」

 今度はガラドリンが変な声を出す。少女がドワーフをおちょくるからだ。それでドワーフは大笑いだ。

「はははは! たわけたことを。どうして貴様がわしを怒らせる。貴様ごときがわしを怒らせられるものか。貴様はただの人間で、わしはドワーフだ。人間が何をしようが、何を言おうが、ドワーフは気にも留めん」

 ところが、急に口を閉じると、ガラドリンは真顔を作る。

「そうではない」

 そう言って腕を腰にやり、鼻から大量の息を吐き出した。

「わしはな、いま酷くワクワクしているんだ」

 それは意外な言葉であった。人間を見下し、気にも留めないはずのドワーフが、まさにその人間の最たる未熟者であろう少女チキタに向かってワクワクすると言ったのだ。

「想像してみろ。わしは今日まで我慢してきた。貴様のためだ。貴様のために問い質したいことが山ほど湧いてきても押し殺したんだ。知りたいことをすべて飲み込んだ。当然だ。知ればそれで未来が変わる。聞きたいことがあっても、すべて飲み込んだのだ。それがどれほど忸怩たる思いだったかわかるか。貴様には分るまい。思い出してみろ。貴様をここまで連れて来ると約束したのはわしじゃない。忌々しいことに、あの6人だ。貴様とやつらが決めた勝手な約束だ。だが、そんなことはもうどうでもいい。義理も何もなくとも、貴様の言う通りにやってきた。そして、ここまで貴様を連れて来てやったんだ。それだけは何を置いても事実のはずだ。だったら、少しはその恩に報いて見せろ」

 チキタが困惑の顔を向ける。

「どうしろって?」

「分かりきったことだ」

 そう言うと、ドワーフは真っ直ぐにチキタを睨みつけ、こう続けた。

「貴様の話を聞かせるんだ。当たり前だ。貴様が何者で、どこから来たのか。そして、どうしてこんなところで巨人の未来を変えたのか。それを話せ。全てだ。何もかも。それこそ、ありったけの話を全部。もういいはずだ。巨人は結局は死ぬ。だが、それにも何か意味があるはずだ。変わらんように見えて何かが変わったはずだ。そうだろう? わしは誤魔化されんぞ。とにかくすべて教えろ。わしは貴様に随分と貢献したはずだ。貴様の願いを叶えてやったんだ。どうしてもと乞うた貴様の願いをだ。だからわしには聞く権利がある。貴様にはそれを話す義務がある。貴様が――。」

 と、言いかけて、ガラドリンは口籠る。頭の中で思考がこんがらがったのか。それで、こんなふうに言い直す。

「いや、待てよ。待て、待て。これは本当に貴様の願いか? もしや、エルフの願いじゃないのか? エルフが乞うて貴様を送り出しただけなのではないのか? それなら、願いの真意を知るのはエルフの方か。いや、それもどちらか分らん。どちらだ? それも教えろ。いや、わかっとる。これは酷い詮索だ。我ながら。これから味わうかも知れん愉しみを自ら台無しにしている。とにかく、わしと貴様の間で起きたどれもこれも、もう済んだ話だ。もう終わったことだ。今は貴様の話を聞くことだけが楽しみなんだ。話すんだろうな。貴様はわしに帰れと言ったが、とんでもない。土産も無しに追い返すつもりか。そうはいかんぞ」

 これが、ドワーフが少女と別れるのを見合わせた理由なのだ。ドワーフは腕組みをして、全身にどっしりと体重をかけて強張った顔を向ける。

「いつでもいいぞ」

 ところが。

「ちょっと待ってよ」

「はん?」

 チキタがそれを遮る。

「あんたの話がまだ途中だったでしょ?」

 チキタがそんなことを言う。

「わしの話だと?」

「そう、あんたの話」

「わしの話がどうした。あんなのは退屈しのぎだ。貴様も右から左の様子だったろうが」

「そんなことないよ。面白かった。続きが知りたいから最後まで聞かせてよ」

 ドワーフが眉をひそめる。

「何を企んどる」

「べつに。なんにも」

「ふん、おべっかだな、急に。裏があるぞ」

「ないよ。そんなんじゃない」

「じゃあ何だ」

「ただね」

「ただね、何だ」

 そこでチキタが腰に手をついて深呼吸をした。溜息だったかもしれないが、どちらか分らない。それを悟られないようにしたのだ。それからガラドリンに向かって、こう言った。

「あんたが先に凄い話をしたら、あたしはもっと凄い話をしなきゃね」

「何だと?」

 ガラドリンの顔色が変わる。

「わしより面白い話だと?」

「そう」

 チキタが笑う。それがドワーフの琴線に触れた。ドワーフが色めき立つ。

「撤回できんぞ」

「撤回しないね」

 チキタはにこりとほほ笑むだけだ。その顔にガラドリンが訝しむ。ただ、腹の底から胸のあたりに込み上げてくるものもある。こんなにゾクゾクとする感情は初めてだ。こいつの言葉を真に受けてやろう。そう腹を据えても価値があると踏んだ。だから、ガラドリンがこう返す。

「だったら、わしが先にやってやる。その次は間違いなく貴様だぞ」

「うん」

「よし」

 これで、段取りが決まった。ガラドリンはその場でどかっと腰を落として座り込んだ。その隣にチキタも座る。逃げも隠れもしないつもりだ。

「それで、どこまで話した?」

 ガラドリンが尋ねる。

「ドラゴンが巨人たちを皆殺しにしたところ」

「そうだったな。そこまでは話した。では続きと行こう」

「うん」

 これからこの小人が話すこと。それは、これまでチキタという名のこの少女に話してきたことのすべて。その何もかもが、この世界で起こった歴史そのものだ。ドワーフは心の底から楽しみにしていた。隣に座る得体の知れない人間の少女が何者なのか、それが詳らかになるなら出し惜しみはしない。この癇癪持ちのせっかちな小人は愉しみを掻い摘んで台無しにするような性質ではない。そのためならば、己の脳髄に蓄えたありとあらゆる光景を語りつくすまで語り明かすだろう。ドワーフが、この世界の隅々に散らばった、すべてのドワーフたちが耳に聞き、瞳に見た物語が。

 その時、チキタがガラドリンから視線を外して、ちらりと空を見る。太陽を見たのだ。一瞬だったが、ドワーフは見逃さなかった。

「今度はうわの空で聞き流すなよ。トカゲめが」

「はい?」

 チキタは驚いた。

「いま、なんて?」


 さあ、始めよう。

 彼らは物語の続きから。だが、我々は彼らに追いつくことを見越して、初めから進めるほうがいいだろう。その物語は、こんな出だしから始まるのだ。


 狂える巨人アノトの魔の手からムトゥがどうして逃れ得たか。花園では身を隠せる場所などどこにもなかった。なぜなら、ムトゥもまた巨人だったからだ――。


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