キナリ!
狂える巨人アノトの魔の手からムトゥがどうして逃れ得たか。花園では身を隠せる場所などどこにもなかった。なぜなら、ムトゥもまた巨人だったからだ。花園に居並ぶどの山も巨人を匿えるほどには大きくはない。だが、彼女にも戦う術はあった。オルグマナス。それは、この世の全てのマグマを寄せ集めて煮えたぎり、光はあれども闇に隠れ、太陽すらも暗黒のしもべとなる。破壊と混沌に満ちた灰と炎の世界。オルグマナスの他に世界はない。オルグマナスこそが世界の全て。
ムトゥはこの闇の世界へと逃げ込んだのだ。追いつかれるより早く、恐るべきオルグマナスに踏み込んだ。花園ではどんな山だろうと巨人たちは股いで越えてしまえる。だが、オルグマナスのそれはまるで違っていた。天まで聳える桁外れな絶壁が巨人の行く手を阻んで立ち塞がる。その絶壁の頂は空を塞いで噴煙を撒き散らし、猛り狂う稲妻をまとわりつかせていた。煌々と輝く赤黒いマグマがとめどなく溢れ、すべてを焼き尽くして吞み込んでいく。まるで、この世の終わりのような世界に出現する火山たちだ。
ムトゥは自身がかつてない世界に引きずり込まれているのではと焦燥した。彼女の行く手を暗黒が立ちはだかる。かつて見たことのない巨大な隆起がどこまでも連なりマグマを吐き出している。それでも、ふり返れば猛然と迫りくるアノトの姿があった。ムトゥはオルグマナスの巨大な山々の一座に手をかけた。それがどんな山だろうと、よじ登らねばならぬ。アノトを振り切れぬ。しがみついた絶壁は灼熱を帯びて指を焼く。アノトがムトゥを引きずり降ろさんと追いすがる。ムトゥはアノトの魔の手を振り払いながら、登り詰めた絶壁の頂で死を覚悟した。しかし、それはアノトの狂気に屈したからではない。この悪鬼にすべてを投げ打って飛びつき、ともに滑落してその下敷きにして圧し潰すつもりでいたからだ。間違えれば代わりに自分がそうなるかも知れなかった。だが、もはや彼女に残された道は他になかった。ところが。
ムトゥがそうするより速くアノトに飛びかかり、この錯乱の巨人をムトゥから引き剥がし、唸り立つ死の急峰から叩き落とした者がいた。それがキナリ。オルグマナスの巨人であった。
オルグマナスは岩と灰の不毛な世界。そして、想像を絶するほど広大だ。そこに聳える山々の一座からひとたびマグマが爆発したなら、生きとし生けるものすべてを塵と消し炭にする。それほどの世界だからこそ巨人が住まう。巨人でなければ生きていけぬのだ。
そのオルグマナスにはあらゆる巨人たちが息づいている。恐るべき大火山アストノスの麓には鋼と金床に魂を囚われたモルダワの巨人が巣食う。真っ赤な皮膚は煤に焼け、骨と皮ばかりの痩せっぽちだが鋼のように硬い髭を生やした熱砂の巨人どもだ。彼らはアストノスの炎を窯の火種に、砂と灰から武器を作る。容赦のない連中で、氷の世界で生きるエダワの巨人が近づくことは決してない。だが、彼らとて野蛮ではない。統率された、いい鍛冶なのだ。そのはずだった。このモルダワの灼熱の大地へ、より強い焦熱をまき散らす黄金のドラゴンが現れるまでは。
ドラゴンはたちまちモルダワの巨人たちを調伏して跪かせ、アストノスに君臨した。アストノスは変わってしまった。
――――
オルグマナスでただの一座、花を咲かせる山がある。不毛の世界にあって、その山にだけは花が咲く。アノトが死の瀬戸際にしがみついたためにそのようになった。そうである以前に、この山が何と呼ばれていたか知るものはいない。それを、今はムトゥがこう呼ぶのだ。ソナンと。
キナリはエダワの巨人であった。ムトゥとキナリは愛を交わし、エダワの地で二人の間に生まれたヨマクと仲睦まじく暮らしていた。エダワという土地はオルグマナスの辺境の地にあった。マグマの熱が届かぬ雪と風の国。すべてが凍りついて死に絶える極限の世界。だが、それをものともせぬ不屈の戦士たちが支配する偉大な国なのだ。ところが今、このエダワは、わずかキナリたち三人だけの小さな所帯でしかなくなっていた。かつての栄華は潰えてしまっていたのである。
花園の巨人であるムトゥにとって、草木の乏しいエダワの暮らしは厳しかった。それでも彼らは幸せだった。慎ましくはあったが、そんな暮らしに彩りをもたらしたのは他でもないヨマクだった。この子は時折、妖精と話をする癖のある子だった。自分たちの頭に小さな妖精が住み着いていると言い、頭をまさぐっては何もない手をキナリやムトゥに見せていた。二人には何も見えない。それでヨマクは髪の毛を抜いて手のひらに置いてみせる。すると、髪の毛は風もないのに動くのだ。それが妖精の仕業だと笑っていた。エダワは寂しいところであったが、ヨマクは一人遊びを思いつくのが上手な子だった。
ある日のこと。モルダワの大火山アストノスの新たな支配者が突如としてエダワに現れた。その翼はギラギラと輝き、金色に波を打つ。ドラゴンは周囲に無数の火の玉を従えていた。火の玉は火山の噴火で打ち上げられた火山弾だ。それらが一気に加速して、飛翔するドラゴンよりも先にエダワの大地を蜂の巣にする。エダワの安寧は一瞬にして地獄へ変わる。
金色のドラゴンは背後からキナリに襲い掛かった。両足に備わった鋭い鉤爪はキナリの両肩を鷲掴みにして食い込み、山一つに匹敵する巨大な体を軽々と持ち上げた。だが、キナリは不覚を取ったのではなかった。キナリはドラゴンの飛来を知ると、ヨマクを庇って腹に抱き、襲い来る脅威に背を向けて身を挺したのだ。ところが、このドラゴンの狙いはヨマクなどではなかった。幼く小さいヨマクなど取るに足りんとばかりに、自身の体格と比肩しても見劣りせぬ剛力の鎧をまとったキナリを餌に選んでいたのだ。そうすることに何ら躊躇などなかった。それほどまでにドラゴンは強力だった。やつらはこの世界の支配者なのだ。
ドラゴンの強靭な鉤爪がキナリの両肩を握り潰す。血しぶきが噴き出し、肉がひしゃげる。そのせいでキナリの腕はヨマクを抱えていられず、腹にしがみつくヨマクを落としてしまった。ドラゴンはキナリを捕まえて浮き上がると、瞬く間に大地を突き放し、地上からは何者も干渉できぬ遥か上空の真っただ中に連れ去った。鉤爪が肉をえぐる力は凄まじい。ドラゴンがその気になれば巨人の体などあっけなく引き裂いてしまうだろう。もはやこうなると勝負ありだ。巨人の腕は使い物にならぬ。あとはドラゴンの口吻に生え揃った無数の牙で巨人の頭に齧りつくのみ。
それでも、キナリはまだ手の内を秘めていた。腹に満たした巨大な氷塊を喉元まで押し上げてから口から吐き出し、恐ろしく冷たい息を吹きつけた。ドラゴンの足をあっという間に凍傷させたのだ。これがエダワの巨人だ。凍りついた足は鈍り始め、力が抜けていく。たまったものではなかったか、鉤爪はキナリの両肩からつるりと引き抜かれた。すると、唐突に空中で支えを失ったキナリは真っ逆さまに墜落していった。墜落していく彼の眼下にはエダワの凍結した山脈の鋭利な峰々が待ち構えていた。
想像してみるといい。巨大な山の尾根に墜落するというのは、人間の場合なら刃の逆立った拷問具に激突するようなものだ。
だが、幸いにもこれらの刃は、この戦いに中立であった。激突したキナリの身体は鋭利な山頂からわずかに逸れて、斜面を転がり落ちるだけで事なきを得た。その墜落の衝撃もキナリの柔軟な肉が和やわらげていた。一命を取り留めたのは強靭な筋肉ばかりではない。彼のふくよかさも助けとなった。エダワの厳しい寒気を凌ぐには、脂肪の布団をまとっておかねばならないからだ。ただし、灼熱のアストノスの麓で生きるモルダワの巨人や金色の竜どもにはその必要もなく痩せっぽちだが。
そして、キナリにとっての僥倖はそれだけではなかった。山頂から転がり落ちた先にこん棒を担いだヨマクがいたのだ。ヨマクは飛翔するドラゴンを見失うことなく、その爪から父が必ずや逃れると信じて追いかけていたのだ。こん棒はエダワの氷を砕くために巨大なアズロイの針葉樹を数万本も重ねて束ねた粗雑なものだ。とはいえ、これを巨人が握るのだから破壊力は推して知るべし。鈍器を模した樹木の束が破格の威力を生み出す。
キナリがこん棒を受け取ると、ひしゃげたはずの両肩に力がみなぎった。筋肉は膨れ上がり、分厚い脂肪が薄皮のように引き伸ばされ、傷口から溢れる血がピタリと止まった。真の武器というのは、本当に価値のある場面まで隠されているものだ。だが、今のキナリにはこん棍で十分。そいつを口にくわえて滑落してきた山をよじ登り、あっという間にてっぺんまで這いあがった。金色のドラゴンは凍りついた足をぬぐおうと、空中でぐるぐると回転していた。凍傷を負った爪先を自身の口から吹きつける熱の吐息で溶かそうとしていたのだ。こいつの息は高熱だからだ。
すわとばかり、キナリはこん棒を握り直して水平に振りかぶると、自分が踏みつける山の、そのすぐ隣の山の頂に狙いを定め、あらん限りの力でぶっ叩いた。渾身の怪力に振り回されたこん棒が山頂をぶち抜く。ぶち抜かれた山の頂きは豪快に砕け散り、硬い岩石の破片をまき散らした。破片といえども、どれだけ大きく想像しても足りるものではない。とにかく、山の頂きから分裂した無数の岩石のうち、最も巨大な塊がドラゴンに向かってぶっ飛んで、ものの見事にどてっぱらを直撃したのだ。岩石は弾丸となって金色の鱗を突き破って肉をえぐった。けたたましい悲鳴がエダワの寒山をつんざいた。
棍棒は砕け散って木くずになる。キナリはそれを放り棄てると尾根に乗り上げ、空中で悶えるドラゴンに飛び掛かった。金色のドラゴンは慮外な衝撃にのたうち回り、墜落から免れることばかり考えていたのだろう。巨人の気配に感づかなかった。キナリは、その巨人たる図体からは想像もつかぬ跳躍を繰り出し、ドラゴンを頭上から襲い掛かって覆いかぶさる。武器はない。だが、キナリはドラゴンに素手で掴み掛かると背中に乗り上げ、両足を絡ませて胴体を挟み込んだ。そうしてドラゴンのうねる長い首を捕まえ、その先に繋がった頭を手繰り寄せると上顎も下顎もまとめて右手一つで鷲掴みにする。そうしてから余った左手にゲンコツを作ってドラゴンの鼻っ柱を何度も殴りつけた。口を塞がれ、悲鳴を上げることも出来ずに飛翔の体勢を失ったドラゴンは情けなくキナリに組みつかれたまま、今度は一緒に墜落していった。
両者の眼下に分厚い氷を張った湖が広がっていた。巨人とドラゴンは互いに絡まりながら、ともに頭から氷をぶち破って湖水に突っ込んだ。湖の水がとてつもない衝撃にひっくり返って、底が空になるほど水柱をぶち上げた。巨大物体の突入に湖がもんどりを打ったかのようだ。その衝撃に破裂して押し出された大量の水は外周の山々の峰を駆け上がってから臼状の湖底へ瀑布のように舞い戻り、そして撹拌された。両者は湖底で組み合っていたが、キナリは腰に巻いていた紐を素早く解くと、それでドラゴンの四肢をがんじがらめに縛りつけた。キナリは何度も波を打って叩きつけてくる湖の水と氷が落ち着くより早く岸へ駆け上がり、ドラゴンを拘束した紐の先端を湖岸に並ぶ円錐状の山の頂きにぐるりと結わえて固定した。さしもの焦熱の竜も、縛りつけられたまま氷漬けの湖底で身動きを封じられたなら抵抗できまいというわけだ。
――――
「面白いか?」
ドワーフが尋ねる。少女は笑顔を見せて「面白い」と返した。ドワーフが鼻で笑う。
「だとしたら、貴様は巨人とドラゴンの本当の喧嘩というやつを知らんのだ」
「は?」
二人は焚き火の前で揃って腰を下ろしている。それはまだ旅の途中。二人が目指すギアカンドのあの特異点へ至る道すがらの一時の小休止。あれを七日ほどさかのぼった夜のこと。そこでチキタはこのドワーフが始めた取り留めない話を聞かされているのだ。
「焦熱の竜を湖水に沈めて捕らえた気になるのは早い。キナリにしても思わぬご馳走が転がり込んできたといったところだろうが、それなら間髪入れずに八つ裂きにして解体すべきだったのだ。湖の表層を漂う砕けた氷がにわかに湖の底へ沈み始めた。ヨマクはその異変に気付いたが、手遅れだった。すぐに湖は大小の泡を出してざわつき始めた。沸騰していたのだ」
ガラドリンはニヤリと笑った。
「本当に面白いのはここからだ」
恐ろしい轟音とともに湖面が破裂した。湖の底から紅蓮のマグマがどでかい火柱をおっ立てて噴き出した。そのマグマは湖底よりなお深い地中の奥底にくすぶっていたものだ。それがドラゴンの呼び声によって揺さぶられ、断層を引き裂いて爆発したのだ。噴火と呼ぶには一瞬だったが、拘束から逃れようともがくドラゴンにとっては十分だったろう。
キナリはドラゴンの頭上に巨大な火球を見た。火球は強烈に輝き、太陽を模すかのように膨れ上がる。キナリは傍らにいたヨマクを引っ掴むと、今度は抱きしめず、あらぬ方向へ投げ飛ばすのだ。そして、ドラゴンに向けてその巨体を開いて雄叫びを上げた。そうするしかない。キナリにはヨマクの命こそ大事だ。ヨマクのおかげでドラゴンを仕留めたつもりだったが、詰めが甘かった。再び身を挺してドラゴンと対峙する。その火球でどのようなことが起こるか知らずともだ。火球は極度に高熱を孕み、白熱を放つ。キナリの視界はその白熱に眩み、ドラゴンを凝視することが出来なかった。火球が唸りを上げてキナリに襲いかかる。そいつはキナリの顔面に直撃し、全身を叩き、恐るべき高熱で木っ端微塵に破砕した。
キナリは気を失ったらしい。意識を取り戻したときにはキナリの視界は逆さまになっていた。今度は両足に爪が食い込み、自分がドラゴンの足に吊られてぶら下がっていることに気がついた。もう一度氷漬けにしようにも、吐息は届かない。
全身が火傷で爛れていた。五体は全て繋がっている。ドラゴンはキナリを殺したのではなかった。巨人の肉体を八つ裂きにすることなど容易いはずだが、破砕したのは火球の方だった。しかし、危機を脱したとは言えなかった。そして、キナリの周囲の様子はまるで違うものになっていたのだ。猛烈な熱を帯びた粉塵がキナリの朦朧とした意識にまとわりついてくる。全てが煮え滾るほどの高温と煙に満ちていて、キナリの灼けた肌をさらに焦がした。そして、すべてが暗黒だった。空が灰にまどろみ、光の差し込む隙間をすべて埋め尽くす。まるで黒く染まったもう一つの大地が逆さまに張り付いているかのようだった。そこは太陽すらしもべにする灰と闇の世界。エダワの白い雪などどこにも見当たらなかった。火山が近づいているのだ。キナリはただならぬ世界に引きずり込まれようとしていた。エダワの巨人が決して近づくことのないモルダワたちの神の山アストノスに、すぐそこまで近づいていた。
ムトゥはエダワの祠へ走っていた。キナリに本物の武器を届けるためだ。二振りの鉞。それはウルシドと呼ばれていた。彼女のお腹は大きく膨らんでいた。ムトゥは身重であった。ムトゥがその鉞を祠から取り出し脇に抱えると、大きく張り詰めた腹を支えながらドラゴンを追った。ドラゴンに囚われた夫をだ。そこに酷く焦燥した顔でヨマクが駆けてくる。母を見つけると叫び声を上げた。ヨマクは鼻息を荒くし、険しい瞳で母ムトゥを凝視する。父がどうなったかをその目で見たのだ。自身の腹を支えるのがやっとのムトゥはウルシドをヨマクに託した。ムトゥでは後は追えぬ。すぐに力尽きるとわかっていたからだ。危機にある夫キナリを救えるのはヨマクの他にない。だから、ヨマクを走らせた。ウルシドを背負わせて。
ヨマクは幼かったが、使命を果たすのに不足はなかった。父キナリの逞しさを受け継いでいたのだ。それとも、狂乱のアノトを振り切った母親譲りの胆力か。ヨマクは恐れることなく、アストノスへ乗り込んだ。
――それは歪な円だった。
暗黒のど真ん中で輝きながら、内部が不気味に波を打っている。噴煙を撒き散らす地獄の地表にぽっかりと開いた窯の穴のようだ。その窯は止めどなく黒煙を吐きながら真円へと近づいていく。ドラゴンの顔がギラギラと輝いていた。火の粉が狂ったように飛び散り、照り返す金色の鱗はかまびすしく青や緑、黒にも変色して輝いていた。まるで光のスペクトルを鱗が好き勝手に分離して幾色にも変容する虹を着飾っているかのようだ。一方で、ドラゴンの鉤爪に吊られたキナリは、焼け爛れた顔と血まみれの皮膚をどうすることもできずにいた。
ドラゴンが真円の上空に達すると、足に吊ったキナリを離す。巨人をアストノスの火口に放り込んだのだ。
キナリが悲鳴を上げた。心の準備ができていなかった。あっという間に世界最大のマグマの泉へ真っ逆さまだ。猛スピードで墜落していくキナリの巨体。何かにすがろうと手足をばたつかせるが、すれ違うのは手応えのない黒煙ばかり。加速する自身の巨体を食い止めてくれるものは何もなかった。キナリの眼下にアストノスの火口がその全貌を露わにしていく。それはまるで雨雲から姿を現す太陽のようであった。
だが、しかし。さりとて、キナリは巨人なのだ。オルグマナス最大の火山といえども、その火口は巨人にとってはただの小さな円に過ぎない。巨人がばかでかい体をめいっぱい広げたならば、長い四肢のどれかは火口の縁に引っ掛かけられるはず。全身が丸ごと沈没するようなことにはならないはずだ。それで煮えたぎるマグマから免れられるはず。そんな希望がキナリの頭の中にはあった。ところが。
墜落が進めば進むほど、小さな円だと思っていた火口が見る間に広がっていく。火口の縁が猛スピードで逃げていくではないか。キナリの視界の全てが真っ赤なマグマに侵食されていく。どこを見ても指先が届く場所などない。キナリは思い知った。
その火口はとんでもなくデカいのだ!
キナリは全身を開いたままマグマの満ちる火口のど真ん中に叩きつけられた。その有様は、まるで大きな池に落ちるカエルのようだった。
ぱちん!
マグマの飛沫が上がる。
アストノスは巨人一人をまるごと飲み込むことなど造作もない。哀れ、丸裸同然の巨人が一匹、赤黒い溶融の渦に飲み込まれ、あっけなく沈没していった。そこから先は暗闇だった。マグマに沈めば光を通さぬ地獄の底なし沼。煮えたぎる数千度の高熱と圧力に焼き尽くされて、全てが燃え尽きる。命あるものが無事でいられるはずもない。だが、キナリはそのマグマを泳ぎ出していた!
「巨人が消し炭になるはずがない」
ドワーフはそう言ってにやりと笑った。
「人間なら骨も残らんマグマも、巨人の薄皮一枚焼くのに手こずるのだ。巨人の五臓六腑がこの並外れた生物を支えるためにどれほどのものであるか想像してみるがいい」
そうは言ってもキナリは必死だった。高熱の溶融体がどろどろと絡みつく。上下もわからない暗黒の沼でがむしゃらにもがき、からくも黒煙の吹き荒ぶ表層を見つけて顔を出すと、己の体がアストノスの腹の底に沈むより早くマグマの波を掻き分け、死に物狂いで泳いだ。目指すは火口の縁だ。だが、そのキナリの手がその縁に届こうという、まさにそのとき、キナリの背後でマグマが大爆発を起こしてぶちあがる!
まるで間欠泉の如く、天に向かってマグマが遡る。それが二つ。柱状となったマグマが激しく空を穿つ!
それだけではない。その二つの間欠泉の間から、今度はドーム状にマグマがせり上がるのだ。せり上がるドームのせいでマグマが一斉に引き潮となってキナリを吸い込む。あと僅かのところで辿り着いた火口の縁から連れ戻される! そして、耳をつんざくけたたましい轟音がキナリの全身を毛羽立たせた。キナリが背後を振り返り、そこで見たもの。それは、この世界の誕生とともに現れ、あらゆる物質と結びついて永遠に生きる。マグマに浴してマグマを纏い、体内までマグマに満たされたとてつもない亜生物。超古代の魔人マズムートーだ!
マグマのドームが真っ二つに裂ける! 燃え盛る炎に亀裂が入り――それは卵の殻に入る“ひび”のように見えた――そのひびを突き破って現れたのは、紛うことなき魔人の頭だ。魔人の頭に三つの黒点が浮かび上がる。その黒点の奥に揺らめくにぶい輝き。それが、どんな高温のマグマも凌駕して白熱し、まるで瞑っていたまなこに光が宿るがごとくに解放されて、そしてキナリを見つけて睨みつけた。
魔人は止め処なくマグマを吐き出しながら、全身から炎を噴き上げていた。その炎が千切れる度に、魔人の装飾品としてマグマの体を飾り付ける。それはあたかも角のように頭部を飾り、あるいは鎖状に連なり首輪のように絡みつく。アストノスの火口にはこんなやつが巣食っているのだ。そいつが、がばと大口を開けてキナリに食らいつこうとしていた。
「こいつの餌か!」
キナリは逃げ出した。こんなやつに食われるわけには行かない。だが、逃げられるはずもない。火口に満ちるマグマは魔人の体そのもの。すべてが地続きなのだ。それは魔人の表皮の上っ面を泳ぐようなもの。その目を盗んで逃げおおせるはずがない。
二つの間欠泉がぐにゃりと曲がる。まるで軟体動物の触腕のようにうごめき、キナリを左右から挟撃する!
これが魔人の腕なのだ。魔人の腕がキナリに激突して次々と爆発する。加減の知らない破壊がキナリを襲う。物理的な威力を持ったマグマの腕が挟み込んだ獲物を砕き潰さんと鉢合わせになり、キナリの体にマグマが怒涛の如く押し込まれる。次第にマグマが硬化していく。キナリを掴むためにマグマが凝集しているのだ。質量の増したマグマの腕が極度の高熱を帯びたまま、キナリの皮膚を焼き、激しく締め上げる。骨まで絞り、バラバラに砕こうとしている。キナリが呻き声をあげる!
キナリを掴み取った腕から無数の指が生え、逃げ出そうともがくキナリに絡みつく。キナリを掴んで離さない。しかし掴まえたまま消し炭にしようというのではない。どうしても巨人を口から頬張りたいのだ。たとえそれがキナリであろうと、魔人に比べれば巨人など小動物に過ぎない。それを地獄の業火をくべたような大口をぐわっと開けて、自分の指ごとまとめて食らいついた。
――――
ヨマクは駆け続けていた。激しく波打つ険しい尾根や谷底をいくつも越えた。反り返る絶壁には歯を食いしばってしがみつき、無我夢中で這い上がった。アストノスへ行かねばならない。父をさらったドラゴンはソナンの先へと消えた。火と暗黒の世界がやつのねぐらなのだ。ムトゥは自分の腹を支える帯を解き、ヨマクの背中にウルシドを括りつけてやった。ウルシドを決して落とさぬように。身重のムトゥはその場で動けなくなってしまった。それでもウルシドの加護がある。必ずや、ヨマクがその加護を父のもとへ届けてくれるはず。
ヨマクは父に内緒でソナンへ登ったことがある。母ムトゥが度々この山を訪れるのを知っていて、隠れてついて行った時のことだ。ヨマクは母が去ると、そこから一輪の花を摘んでエダワに持ち帰った。その花を父に見せたかったのだ。だが、キナリはヨマクの小さな手からその花を取り上げてヨマクを咎めた。
「ソナンは危険な山だ。登ってはいけない」
キナリは常日頃から「ソナンに近づいてはならぬ」と、ヨマクに言いつけていた。ヨマクは、それはまだ自分が幼すぎるからだと思っていた。だから、ソナンから花を摘んで帰れば、もうそうじゃないと父にわかってもらえると思っていた。あの時、ヨマクは悲しい目になって、初めて父に言い返した。
「ソナンには、こんなに小さなお花が咲いてるの。お花が大丈夫なら、わたしも大丈夫」
ヨマクはソナンへたどり着き、その頂に登った。花はまだ健気にそこにあった。摘み取った花は、また茎の先から次の花を咲かせていた。この不毛のオルグマナスに花が根付いているのだ。か細くても凛々しく天に向かって伸びる姿は紛れもなく生命が息づいていて、ヨマクにはそれが何よりの喜びであった。そのヨマクの肌をモルダワから流れてくる温かな風が撫でる。エダワにはモルダワで荒ぶるような火山や噴火に乏しい。常に空は薄雲に覆われ、太陽は決して顔を出さない。雲の奥で鈍く輝く太陽が沈んでしまうと、エダワを照らす灯りは何もなくなるのだ。だが、ソナンの向こうに広がるモルダワの山々はいつでもマグマが真っ赤に輝き、ヨマクの瞳を照り返す。その時だけは彼女をエダワの夜の闇から解放するのだ。
彼女が頂まで登ると、エダワでは肌を貫く寒気がずっと和らぎ、モルダワから流れつく焦げついた熱波が混ざり合って穏やかな風となり、何とも心地がいい。もうエダワの気候は届いていない。冷たい雪も固い氷も、肌を縮こまらせる霜も、もはやヨマクの周囲から気配を消した。彼女の視界の先には代わって肌をひりひりと焼くモルダワの熱が近づいていた。父キナリがきつく咎め、決して足を踏み入れることを許さない熱砂の世界だ。しかし、この世界にヨマクは挑まねばならない。父が連れ去られたモルダワへ。
ところが、ヨマクはソナンから望むモルダワの山々のうち、どれがアストノスなのかが分からなかった。アストノスを知らなかったのだ。ヨマクは暗闇を睨みつけている。その闇の中に煌々と燃え盛る火山がいくつも見える。そのうちのどれかがアストノスらしい。ソナンの頂から見渡すモルダワには、至る所に噴煙を撒き散らす火山がひしめいている。右を見れば四つの火山、左を向けば五つの火山。そんな調子だ。それらは火口の数も大きさも噴煙の様子も一様ではない。不均一だからどの火山も近くにあるようにも見え、また遠くにあるようにも見える。視界は常に塵と煙に翳り、視界を狂わせる。ソナンから見えるはずのアストノスがどの山を指すのかヨマクには決められないでいた。間違えてはいられない。速やかにアストノスを見つけて、ドラゴンの後を追わねばならないのだ。
「妖精さん、お願い、助けて」
ヨマクは祈った。しかし、祈りをささげた相手は妖精だった。世界の創造神には祈らなかった。なぜだろう。理由は簡単だ。この世の創造主であられる神祖様は公平な精神をお持ちの方だから、父キナリを連れ去ったドラゴンにも助力を惜しまぬことだろう。そうであるから、ヨマクは妖精にすがったのだ。こんな時には依怙贔屓が恃みになる。エダワと、キナリと、そしてヨマクに味方をするえこひいきが。ヨマクが自分の頭をまさぐって、いつものように頭髪をむしり取った。指を開ければ、無数の抜け毛と、何人かの妖精が見つかった。それはうろちょろ動く姿が辛うじてわかる小さな生き物だった。ヨマクの手の平に現れた者たち。それは――。
「大地から生まれた鋼の肉体。大河のごとく刻まれた深い皴。溢れる髭に湛えた誇り高き威厳と石頭。その石頭には世界中からかき集めた無限のエネルギーがはちきれんばかりに詰め込まれていて、もしも、その頭を開いて見せたならば、モルダワの噴火などみすぼらしいほどの大爆発が拝めるだろう」
突然、ガラドリンが仰々しい口ぶりで妖精の様子をチキタに話して聞かせるのだ。何だか妙な感じだった。やけにこの妖精を持ち上げる。ドワーフは意気の上がった顔をチキタに向けた。
「わしらのご先祖様たちだ」
そう明かして、満面の笑みを浮かべる。
「あっそ」
チキタはつまらなそうな顔で返した。だが、ドワーフは気にも留めずに話を続ける。
「これは歴史的な瞬間なのだ。これが巨人とわしらドワーフの初めてのコンタクトなのだ。なぜなら、デカい巨人どもは、わしらのことなど気づきもせん。だが、ヨマクは違った。あの子はわしらに気づいて、願いを請うた。巨人の歴史の一幕に、間違いなくドワーフの意思と決断が刻まれた瞬間だ。これがどれだけ重大なことか貴様にわかるか。わかるまい。人間はひ弱だ。わしらドワーフが辿りつける場所に、貴様らは辿り着けん。巨人の頭に住処を構える人間などいない。これほどの重責を担える場所に人間はいない。わしらだけなのだ。巨人とともに、その歴史の側に立ち会えるのは」
ドワーフの調子が上がる。
「わしらドワーフは巨人の頭であればどこにでもいた。どの巨人の、どんな頭にも。それでオルグマナスの端から端まで、隅々を見た。人間どもにこんな真似はできん。ひ弱ですぐに死ぬからな。だから、貴様が物を知らんのは貴様のせいではない。ひ弱な人間どものせいだ」
「はあ」
「ドワーフたちは常に巨人とともに世界を闊歩してきた。巨人が巨人と邂逅するとき、わしらドワーフもドワーフと邂逅し、巨人たちが別れるときにはドワーフも別れ別れになる。運命共同体なのだ。わしらにとって巨人の頭は揺籠であり、止まり木であり、基地だった。そして、ヴィブルのような乗り物でもあった。ときにドワーフ同士で争うこともあったが、その知見、洞察、教訓、人生、それらはみな口伝となって後世に継いで語られることになる。それが今、貴様に話して聞かせているものだ。だが間違うな。わしらは巨人の死につきあうことはない。運命は共にはするが、やつらが死ぬとき、わしらも死ぬなどとは思うな。そんなつもりは毛頭ない。巨人が死のうがわしらは生き延びる。何が何でも生き延びる。生きて、生きて、生き抜くのがわしらだ。そのための石頭だ。そのための鋼の体だ。それで、子孫を繋ぐのだ。わしらの祖先の誰もがそうしてきたからだ」
そこまで話して、息をつく。
「わしらの姿は巨人の体をぐっと縮尺したようなものだったからな。ヨマクにとっても見慣れた姿だったろう。そこにいたのは六人のドワーフ。巨人の頭はいつでも彼らの心地よい住処となった。だから、ドワーフたちはヨマクのためにしてやれることはないかと気を揉んでいたのだ――」
ヨマクの手のひらのドワーフたちは暴れに暴れた。そして叫びもした。そうでもしなければヨマクに届かないからだ。めいっぱい動いて訴える。暗黒の中から一刻も早くアストノスを見つけなくてはならない。ドワーフたちは右に見える火山群をベズルム。左の群れはデナナンと呼んでいた。彼らはヨマクにこう伝えた。指をその間の正面に向けろ。そこから、その指先を天に向かって持ち上げるのだ。ヨマクはすぐにそうした。
「素直な子だったからな」
持ち上げた指の先にあるのは真っ黒な闇。ヨマクが目を凝らして指はさらに上へ、まだ上へ。そこにはまだまだ闇が続く。その時だ。突然、天を引き裂くような、強烈な光の亀裂が暗黒を真っ逆さまに貫いた。どデカい火山雷による凄まじい一撃だ。途端に、眩い閃光が拡散し、真っ白な光がヨマクを包み込んだ。衝撃が後から届き、ヨマクの立つソナンの山体を激しく揺らす。ヨマクは手のひらを塞いで妖精たちを閉じ込め、彼らが吹っ飛んでしまいそうだったのを守ってやった。
ヨマクは、自分を包む光が消えかかると、そこに恐るべき魔の山の全貌を見た。アストノスはそこにあったのだ。それは禍々しく天を衝く魔山。あまりに巨大だったから分からなかった。ソナンからアストノスはいつでも見えていたのだ。ただ、あまりにも巨大で、その山体がただの闇夜の一部と錯覚していたのだ。光はすぐに消え失せて、再び彼女の視界は暗闇に染まる。だが、アストノスの輪郭は彼女の脳裏にはっきりと浮かびあがる。あの強烈な稲妻に泰然として、まるで様子を変えなかった。アストノスを襲った火山雷はどんな火山も破壊して消滅させるだけの威力に思えた。だが、アストノスにとってはただの当たり前の稲妻の一つに過ぎなかったのだ。
――――
ガラドリンが一つ、息を吐いた。
「貴様にいいものを見せてやろう」
そう言うと、ガラドリンが腰を浮かせて腹に締め付けられた衣嚢を緩めた。そこから取り出したのは小さな包みであった。ドワーフの大きな手のひらに乗せられたそれは余計に小さい。包みはフェルトのようだが、もっと滑らかだ。固いものを包んであって、いくつかの角を一本の紐で結ぶようにぐるぐると結わえてある。それを丁寧に解いていくと、包みから出て来たのは小さな金属片であった。光沢があり、錆もない。もう日が暮れて、辺りは薄い闇に変わりかけていた。木々の樹冠の、その隙間から降りてくるか細い星の灯りだけだが、その儚い光でも煌々と輝く。
「ウルシドだ」
ガラドリンがそう言うのだ。チキタが眉をひそめて覗き込む。
「本物?」
「当たり前だ」
ガラドリンがチキタを睨む。すると、ウルシドにさっと包みを被せて隠してしまった。
「え?」
「こいつはデリケートなやつなんだ」
ガラドリンは隠したウルシドから包みをそっとめくる。そこからちらりと見える金属片は、淡い光を湛えたり、鎮まったりを繰り返す。呼吸をしているかのように見える。ガラドリンとチキタがそれをじっと見る。その様子はまるで毛布の隙間から赤子の寝顔を覗き込むようだ。
「大変な思いをしたんだ。こいつは」
「大変な思い?」
ガラドリンがうなずく。
「わしのことじゃない。言葉の通り、このウルシドのことだ。こいつもまた長い旅を繰り返してやって来たのだ。あまりの長旅に、誰が主人かも忘れてしまった」
そう言って、本当に包みを被せてしまう。それでまた、ぐるりと紐を結わえて閉じ込めた。
「起こしてはかわいそうだ。今ではこの通り、小さな金属片に変わり果ててしまった。だが、まだ力は残っとる。呼びかければ、誰が主人かを決めるぐらいの力はな」
そう言って、チキタに視線を移す。
「だが、そう簡単には赦さん。わしも貴様も、こいつの主人には決してなれん。こいつには帰るべき主人がいるからだ。そいつのもとへ帰るまで、こいつはドワーフの手を渡り歩く」
「誰?」
「ふむ」
ガラドリンは、すっかり包みの中に戻ったウルシドを少しだけ見つめてから懐へと戻し、話し始めた。
「改まって聞く必要はない。これは、そのウルシドの長い旅の始まりの話でもあるからな」




