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はじめに

 全く同じに見える数匹のトカゲの中に奇妙な奴がいた。染色体が桁外れに大きいのだ。遺伝子の重複による染色体の肥大化は珍しくはない。だが、そいつの場合は他の何でもないトカゲとそっくりな遺伝子を持ちながら、さらにその前後に数千倍の塩基を繋げているのだ。その大部分はまるで活性化していなかったが、ただ、その配列がまた妙だった。トカゲを表現する重要な配列が、そこから前後に伸びる膨大な塩基群よりも遅れて並べられたものだと分かったからだ。それらがどういう意味をもたらすものなのか、まだ誰にも分からなかった。


 妙な奴には妙な考えをぶつけてみるものだ。


 もしかすると、この生き物はトカゲなんかではなく、長大な重複遺伝子を使って他の生物を模倣しているのではなかろうか。それは胚発生の段階で、おそらく卵の中にいる頃だろう。余分な塩基を組み換え、他の誰かに成りすますのだ。

 生物の進化は多様だ。あるものは鰓を失い、鱗を失い、翼すら失う。得るばかりが進化ではない。巨大だったものが小さくなることもある。だが、こいつの場合はまるで並外れたことをやってのけている。

 重要なのは、遺伝子にはかつてそうだった名残が記録されているということ。矮小なトカゲもかつては巨大な何かであった。そのために必要な因子は細胞の中で固く閉じ込められていて、トカゲでいるための従順な機序から疎外されてはいたが、鍵を開けてやれば時を遡るがごとく、この奇妙な生命体の未曽有の歴史を紐解くことになるだろう。

 しかし、エルフの王女が知りたかったのは、この生物がどう役に立つかだ。それはまるで無限に彫り尽くせぬ深遠な金脈だった。そのトカゲの遺伝子には、ありとあらゆる生物の特異的な形質が取り込まれていたのだ。おそらく、長い生命史の片隅で子孫を繋ぎながら様々な生物を模倣し、擬態し、その都度獲得してきた形質なのだ。今は六つ足のトカゲの遺伝子を発現させてはいるが、気に入った形質があれば自身の配列に加え、いらない部分はバラバラにしてしまうのだろう。だが、この生き物がトカゲの姿で満足しているうちは獲得した形質は不活化を受けて使い物にならない。もしも、その修飾が解かれることがあるのなら、その生物は計り知れない何かであるに違いない。


 エルフの王女にはお気に入りの櫃があった。華奢な王女には大きな櫃だ。エルフの少女ぐらいなら4、5人は詰め込んでも窮屈にならない。そんな櫃だ。王女は奇妙な生き物を見つけては可愛がり、その櫃に詰め込む。櫃は密閉されていて窓も格子もない。蓋を開けねば中の様子はわからなかった。だが、それでよかった。櫃の中身は王女の頭の中に浮かんでくるからだ。エルフには予知の力があった。箱の中身がどうなっているのか、開ける前に思い浮かべる。様々な蠢くものを放り込んでは予知を練り上げる。王女の頭の中でカエルがヘビを飲み込み、ナメクジがカマキリを消化する。そんな光景が浮かんでも驚くに値しない。蓋を開ければ櫃の中ではそうなっているからだ。それを愉しむ。


 ところが、あるトカゲを放り込んで王女の予知が狂い始めた。トカゲとは棺蜥蜴のこと。このトカゲは愚鈍で大人しい。非力で爪もなければ肉を食いちぎる歯もないから、肉が腐って柔らかくなるのを待つ。棺桶に群がる腐肉食いのトカゲだから棺蜥蜴と呼ばれる。それで家畜を傷つけることもない。だから家畜の餌になる。そんなひ弱なトカゲだ。このトカゲについて挙げるものがあるとすれば、日光の位置をよく知っているということだけだろう。密閉された場所でも体温を温めようと鼻先をその方角へ向けているのだ。滑稽だ。櫃の中に囚われては、太陽など見えはしないのに。だが、旅をする者ならば、このトカゲを虫篭に忍ばせておくという。嵐でも太陽の位置を探るのに重宝するからだ。

 そんなトカゲを捕まえておくには訳があった。王女には特に可愛がっているペットがあった。ヨドゥンだ。

 ヨドゥン。

 そいつは猿のようなもので、矮小で毛むくじゃら。性格は極めて残忍。手足はひょろりと長く、指から伸びる爪は歪で長さが揃わない。常に不潔で怠け者。それでいて、顔つきはゾッとするほどエルフに似ていた。それもそのはず。このヨドゥンはエルフから分かれた類縁なのだ。王女と何ら遜色のないエルフ族の文明人であったものが野生に帰化したのだという。数千万年前だ。ヨドゥンは文明の否定から厭世を患い、ある境地に達してエルフから袂を分かった。以来、非文明に帰依して草木や水辺を好んで野生の掟なるものと寝食を供するようになった。次第に恥を忘れ、言葉を忘れ、道具を忘れていった。そして、野蛮な本能に支配されていった。彼がそう望んだのだ。奇妙なことに、野生に浸潤するにつれ、ヨドゥンの寿命が縮んでいった。その子孫は野生の洗礼に脅かされながら多産になり、神祖の面影を脱ぎ捨てていった。そして、ヨドゥンは猿を産んだ。王女の手元に飼われたのは、この猿たちである。彼女はヨドゥンを繁殖させようと、お気に入りの櫃に閉じ込めていた。


 王女は櫃の中でヨドゥンをつがいにして、繁殖の足しにとトカゲを放り込んだ。ヨドゥンは、それを獰猛な鉤爪で引きちぎって平らげる。トカゲの口をこじ開けて内臓をえぐり出すのだ。トカゲの口角を引き裂くと、内側から肉をめくって裏と表を逆にする。剥き出しになった内臓を掻き取って、真っ黒な噴血にむしゃぶりつく。それがいつもの作法だった。これは特に観察せずともよい。わかりきったことだから。エルフだった頃の文明的な所作などどこにもなかった。だが、このとき、ヨドゥンもまた予知をするのだ。エルフの名残と言えよう。ヨドゥンたちが予知をする理由は、トカゲの腹の中を知るためである。なぜ予知が必要か。それは、毒に対する抵抗を得なければならないからだ。腐肉は腐敗物である。死体にまとわりつく微細な毒虫たちが千差万別の代謝物を吐き散らして肉を腐らせる。それをトカゲが食う。すると、腐敗の毒はトカゲを蝕むはずだが、そうはならない。トカゲは気にも留めない。死臭を帯びた毒気を体内で無害化する場所へ貯蔵して事なきを得るからだ。これは進化の賜物。ところが、毒を貯蔵するトカゲに食らいつくヨドゥンは違う。トカゲが蓄えた毒を食っては、ヨドゥンはひとたまりもないのだ。だから毒への抵抗を体内で用意しなければならない。そのために、トカゲがどのような毒をどれほど蓄えているか、あらかじめ知る必要がある。あらゆる毒に応じて中和物質を分泌するのだ。これが面白い。ヨドゥンが作る分泌物は奇妙なことに、餌になるトカゲの気配などどこにもないうちから作られ始める。近いうちにトカゲにありつけると分かっていて、それで毒に応じた物質を胃の中や腸の中で分泌させておく。トカゲに食らいついてからそれを作り始めるのではない。ヨドゥンの食事とは、そのようなものである。        

 翻って、トカゲが特に危険な毒を蓄えていない場合には、ヨドゥンは舌なめずりをするらしい。まだ腐肉の味を覚えぬ柔らかな幼体であるからだ。

 王女が一匹のトカゲを投げ入れた。二匹のつがいのヨドゥンの足元に転がしてやった。蓋を閉じる僅かな隙に、ヨドゥンが舌なめずりしたのが見えた。今度のトカゲはご馳走なのだろう。それから先の光景は王女の頭の中でよぎる。殺戮だ。贓物を撒き散らした残酷な狩り。しかし、王女は飽き始めていた。ヨドゥンの様子も代わり映えがなく、もう櫃に閉じ込める珍しい生き物もいなくなっていた。数日放置してから、気がむいたら蓋を開けるという具合だ。櫃の様子を伺う前に王女の頭に浮かぶのは、トカゲの無惨にも裏返った皮膚だ。内臓を剥ぎ取られ、血を吸い尽くされ、食いちぎられた痕跡をむき出しにして、トカゲはその原型をとどめず哀れにもヨドゥンの下敷きになっている。そんな光景。ところが。

 当たり前のトカゲだと思っていた。だが、そうではなかった。櫃を開くと、そこにはズタズタに引き裂かれた二匹のヨドゥンの姿があった。どちらも肉片に変わり果てていて、トカゲがその横でくつろいでいた。王女は息をのんだ。それが何を意味するのか、すぐには分からなかったからだ。ただ、異変が目の前にあった。予知で見たものとはまるで違う光景だったことだけが分かった。奇妙なことは他にもあった。ヨドゥンの肉片は四散して血の気を失い、灰色にくすんでいた。腐敗が始まって悪臭を放っていたのだ。それはおかしなことだった。腐った肉は棺蜥蜴の好物である。それを、まるで見向きもしない。それだけではない。トカゲの鼻先は一向に太陽の方角を向くことがなかった。ぐったりと体を弛めて、瞼を重たそうに開閉している。真っ暗闇の、固く閉ざされた櫃の中に届いた久方ぶりに日の光のはずだが、まるで日光などには用はないと言わんばかりの態度。それは太陽の日差しで体を温めなければ動くこともままならない変温動物が、その性分を忘れてしまったかのようだった。

 このようなトカゲを王女はまるで予知していなかった。このトカゲが棺蜥蜴であるのかも疑うべきだと察した。引き裂かれたヨドゥンの死体。トカゲには歯も爪もない。それがどのようにしてこんなことが出来たのか。また、トカゲが太陽の熱から関心を失うとはどういうことか。凍りつくような冷えた朝にトカゲの背中に触れてみると、王女が指を火傷するかとおののくほどの熱を帯びていた。


 王女はこのトカゲこそ繁殖させるべきだと思い直した。そして、すぐにこのトカゲから興味深く、背筋が凍るほど恐ろしい遺伝子を見つけたのだ。それは、このトカゲが粘膜に取り込んだ他の生物の核酸から、その“中身”を剽窃してしまうという狂った形質だった。そうするためには咬みつくだけでいい。咬みついて血を舐める。たったそれだけ。取り込んだ核酸は分解されて自身の核内のいずれかの染色体に並べてしまうのだ。その多くはすぐに修飾を受けて使い物にならない。トカゲとしてのホメオスタシスを混乱させぬためだろう。だが、その形質が有用とみれば、それは表層だろうと内層だろうと適切な場所に現れる。だが、幸いにも棺蜥蜴に歯はない。この形質は杞憂であると分かった。ところが、思いもよらぬことに、このトカゲが身籠っていることに気がついた。

 王女はトカゲを秘密にしておれなくなり、多くのエルフに披露した。誰もが欲しがると思った。エルフだけではない。ドワーフだろうとネルグルだろうと、この狂気の生命を捨て置けはしない。王女は夢中になってトカゲを自慢した。胸が高鳴ったろう。もはや、自分の脳裏にこのトカゲの未来がまるで見えぬことなど忘れてしまったかのように。


 それからすぐのことであった。トカゲが二匹に増えていたのは。胎生であった。本来の棺蜥蜴とは違い、卵ではなく幼体を産んでいたのだ。王女は喜んだ。どう産まれたかなどではない。交配もなく単為生殖で増えるこのトカゲは彼女の目論見をよく知り抜いているかのようだった。

 王女はこの二匹をよく愛でた。そうすると、次には卵が見つかった。王女は驚いた。それが有性生殖の為せるもので、生まれた幼体との配偶だった。母子でまぐわい、今度は卵を産んだのだ。つまり、トカゲまがいのこの生物は、卵を産むために有性生殖が必要で、そのためにまず無性生殖で子を産んだ。それは自身の分身でありながら性差を持って生まれてきたのだ。

 卵は日に日に大きくなっていった。王女の胸の高鳴りに応えるかのように、風船のごとく膨らんで、トカゲはすぐにその卵を抱えていられなくなった。生みの親のトカゲの体格をゆうに超えて肥大化していく。卵は本来の棺蜥蜴の大きさからかけ離れて数百倍に。トカゲの卵にしては大きすぎるきらいがあったが、王女はその殻の割れるのを心待ちにしていた。有性と無性とで、まるで違う生殖を使い分ける意味とは? たったそれだけのことでも王女の心をくすぐるのだ。

 ところが、卵から産まれてきたのはとんでもないものだった。それはトカゲと呼べる代物ではまるでなかった。破れた殻の隙間から人肌が見えて、そこにエルフの手足と、エルフの指を見た。そして、そこに王女の幼い顔があったのだ。王女は戦慄した。卵から孵ったのは紛れもない赤子の王女であった。恐ろしいことが起こった。その赤子が殻を破り、卵から這い出て、エルフの声で泣き出すと、王女は我を失い、すぐにその赤子を殺してしまった。

 二匹のトカゲは姿を消した。そして、二度と王女の前には現れなかった。


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