第七話 私のままで愛された
彼と過ごす時間は、とても穏やかだった。
一緒にゲームをしたり、本を読んだり。疲れている日には、隣で昼寝をすることもあった。
彼のそばで横になっていると、不思議なくらい身体の力が抜けていく。
「癒されるー」
私は、そんなことを何度も口にしていたらしい。
そういえば、かつて誰にも見せない日記に、「癒されたい」と書いたことがあった。
あの頃は、恋人と話す時間にさえ気を張り、何も考えずに一か月くらい眠っていたいと願うほど疲れていた。
それが今は、好きな人の隣で安心して眠れる。
無理に会話を続けなくてもいい。疲れていたら休んでもいい。何か特別なことをしなくても、ただ一緒にいるだけで心が落ち着いた。
誰かと過ごす時間が、こんなにも心地よいものだとは思わなかった。
私は昔から、人に甘えるのがあまり得意ではなかった。
長女だったこともあるのかもしれない。誰かに頼るよりも、自分で何とかしようとする癖がついていた。
けれど、本当は甘えたかった。
好きな人には、ときどきでいいから抱きしめてほしい。疲れた日には、頭をなでてもらいたい。
そんな気持ちは、ずっとあった。
以前の恋人には、自分の都合ばかり押しつけるな、自己中心的だと言われたことがある。
それ以来、相手に何かを求めること自体が、わがままなのではないかと思うようになっていた。
だから、今の彼に甘えたいと伝えるときも、最初は少し勇気が必要だった。
ところが、彼は嫌な顔をするどころか、嬉しそうに抱きしめてくれた。
「よしよし」
大きな手が、優しく髪をなでる。
こんなふうに甘えてもいいのだろうか。面倒だと思われないだろうか。
最初はそんなことも考えていたけれど、彼はいつも自然に受け止めてくれた。
そうしているうちに、私も少しずつ、抱きしめてほしいときには素直にそう伝えられるようになっていった。
誰かに頼ることも、好きな人に甘えることも、悪いことではない。
ずっと隠していた自分の気持ちを、彼の前ではもう隠さなくてもよかった。
◇
彼が結婚を申し込んでくれたのは、付き合い始めて二年目、彼の誕生日のことだった。
その日は二人で海が見えるホテルに泊まり、私は用意していた誕生日プレゼントを渡した。
そのあと、彼は私を抱きしめ、いつもと変わらない穏やかな口調で言った。
「結婚しよっか」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
「え!? 結婚する気あったの!?」
今思えば、プロポーズへの返事としては相当ひどかったと思う。けれど、本当に驚いたのだ。
彼とずっと一緒にいたいとは思っていた。でも、彼が私との結婚まで考えてくれていたなんて、想像もしていなかった。
しかも、私には一つ、気がかりなことがあった。
「私、掃除苦手だよ!?」
すると彼は、あっさり笑った。
「知ってるよ。まぁ、なんとかなるっしょ」
あまりにも簡単に言うので、思わず拍子抜けしてしまった。
それでも、その言葉は妙に心強かった。
掃除が苦手なことも、片づけが得意ではないことも、彼は知っている。それでも、私と一緒に暮らそうと言ってくれている。
そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
私は彼の顔を見上げ、改めて答えた。
「そんな私でもよければ、よろしくお願いします」
こうして、私たちは結婚することになった。
あとになって聞いた話では、彼は以前にも二度、プロポーズしようとしてくれていたらしい。
ところが、私はその気配にまったく気づかず、知らないうちに二度とも機会を潰してしまっていたという。
だからだろうか。三度目となった彼の誕生日には、遠回しな言葉も特別な演出もなく、まっすぐに「結婚しよっか」と伝えてくれた。
もっとも、そんな彼に「結婚する気あったの!?」と返してしまったのだから、今思えば本当に申し訳ない。
彼が私との結婚を考えるようになった理由も、後日聞かせてくれた。
私が小さな子猫を保護したこと。旅行先で彼が体調を崩したとき、予定していた観光を取りやめて看病したこと。そして、日々の何気ないやり取りの中で感じたこと。
どれも、私にとっては特別なことではなかった。
困っている子猫がいたから助けたかったし、好きな人が具合を悪くしていたら、放っておけない。それだけのことだった。
褒めてもらうためでも、気に入られるためでもない。ただ、自分がそうしたいと思ったから、そうした。
そんな私を見て、彼はこれからも一緒にいたいと思ってくれていたのだという。
かつての私は、好きな人に認めてもらうために、何度も自分を変えようとしていた。
けれど、彼が結婚したいと思ってくれたのは、何かを変えようと頑張っている私ではなく、普段どおりに過ごしている私だった。
そのことが、何より嬉しかった。
◇
結婚の準備は、思っていた以上に楽しかった。
婚約指輪と結婚指輪を選び、式場を見に行き、衣装を決め、招待状や披露宴のことを考える。決めることは山ほどあったけれど、二人で準備を進めていく時間が嬉しかった。
私は当時、友人とのやり取りで、自分のことを「マリッジピンク」だと書いていた。マリッジブルーの反対だ。
――この人と結婚することに、一抹の不安もない。
本当に、そんなふうに思っていた。
ところが、結婚式の前夜。私たちは、初めて喧嘩をした。
原因は、彼が友人たちと遅くまで過ごしていたことだった。
翌日は、私たちの結婚式だ。ずっと楽しみにして、二人で準備してきた大切な日。その前夜に遅くまで出かけていた彼に、私は腹を立てた。
いつも穏やかだった二人の間に、気まずい空気が流れたまま、その夜は眠りについた。
そして、私は嫌な夢を見た。
夢の中の彼は、今まで見たこともないような冷たい顔をしていた。
「やっぱり結婚式やめよう」
その言葉を聞いた瞬間、はっと目が覚めた。
心臓が激しく脈打っていた。
隣を見ると、彼がまだ眠っていた。いつもどおりの寝顔だった。
――よかった。夢だった。
今日はちゃんと、二人の結婚式の日だ。
そうわかっているのに、涙があふれて止まらなくなった。
夢の中で向けられた冷たい表情が、過去の嫌な記憶を呼び覚ましていたのかもしれない。
隣にいる彼を見て安心したことで、張り詰めていたものが一気にほどけたのだろうか。
私はもともと、人前であまり泣くほうではなかった。
以前の恋愛では、つらくて何度も泣いていた。けれど、泣くことまで責められ、ひどいことを言われるたびに涙が出てしまう自分自身が嫌になっていた。
今の彼の前で泣いたのは、誕生日にネックレスをもらったときくらいだったと思う。
あのときは、嬉しくて泣いた。
でも、この朝は違った。
夢だったとわかっていても、悲しくて、怖くて、どうしても涙を止めることができなかった。
隣で眠っていた彼が、私の泣き声に気づいて目を覚ました。
今まで見せたことがないほどぼろぼろと涙を流す私を見て、きっと驚いただろう。
それでも彼は、すぐに抱きしめてくれた。
「泣かないで。昨日はごめんね」
そう言って、頭を何度も優しくなでてくれた。
私は彼にしがみつきながら、途切れ途切れに夢の話をした。
彼が冷たい顔をしていたこと。結婚式をやめようと言われたこと。夢だったとわかっているのに、悲しくて仕方がなかったこと。
彼は私を抱きしめたまま、最後まで話を聞いてくれた。
「やっと結婚式できるのに、そんなことするわけないよ」
そう言う彼の目にも、涙が浮かんでいた。
私は驚いて、思わず泣き止んだ。
彼が泣いているところなんて、見たことがなかった。それほどまでに、この結婚式を大切に思ってくれていたのだろうか。
そうだ。私だけが、この日を楽しみにしていたわけではない。
彼もずっと、私との結婚式を心待ちにしてくれていたのだ。
そう思うと、今度は嬉しさで涙があふれてきた。
「私も、ごめんね……」
彼の腕の中でそう謝ると、少しずつ気持ちが落ち着いていった。
私たちは二人とも、今日という日を楽しみにしていた。そのことを改めて実感できて、ようやく心から安心した。
幸い、涙はそれほど長く続かなかった。あとで鏡を見るのが少し怖かったけれど、目もひどく腫れずに済んだ。花嫁としては、本当にありがたいことだった。
◇
その日の空は、驚くほどよく晴れていた。
前日までの天気が嘘のように青空が広がる中、私は慣れない婚礼衣装に身を包み、彼の隣に立っていた。
いよいよ、この人と夫婦になるのだ。
そう思うと、胸がいっぱいになった。
もちろん、何もかも予定どおりに進んだわけではない。慣れない履物に苦戦することもあったし、小さなトラブルも起きた。
それでも、何かあるたびに二人で顔を見合わせて笑っていた。
式を終えて披露宴が始まる頃には、朝あれほど泣いていたことが嘘のようだった。
私はもともと、写真を撮られるのがあまり得意ではない。
けれど、この日はカメラを向けられるたびに、自然と笑顔になった。誰かに笑いなさいと言われたわけではない。ただ、幸せだから笑っていた。
披露宴ではドレスにも着替えた。彼と並んで撮った写真には、どれも幸せそうな私が写っている。
あの日、私は彼に内緒で手紙を用意していた。
披露宴の席で読んでもらえるよう、式場のスタッフにお願いして、彼の席へ届けてもらったのだ。
細かな文面までは、もう覚えていない。けれど、伝えたかったことは今でもはっきり覚えている。
彼と出会ってから、私の中で当たり前だと思っていたことが、一つずつ覆されていった。
失敗しても怒られないこと。好きなことを否定されないこと。自分の気持ちを伝えても、嫌な顔をされないこと。
目から鱗が落ちるたびに、それまで暗く感じていた世界へ、少しずつ光が差し込んでくるようだった。
いつしか私は、心から笑えるようになっていた。
そして、何よりも伝えたかったことがある。
私が私のままでいていいのだと、思わせてくれてありがとう。
それが、あのときの私の、一番素直な気持ちだった。
手紙について、彼から直接何か言われたことはない。
ただ、結婚式を終えたその夜、彼は私を抱きしめ、いつものように優しく頭をなでてくれた。
今思えば、あれが彼なりの返事だったのかもしれない。




