第八話 私のままで幸せだ
結婚式を終えて、まだ間もない頃のことだった。
以前の恋人から、突然メールが届いた。
内容は、元気にしているかと近況を尋ねる、ごくありふれたものだった。
もう何年も会っていないし、別れてから私のほうから連絡したこともない。今さら何の用だろうと思った。
それにしても、なんというタイミングだろう。
私はつい先日、結婚式を挙げたばかりだった。
無視することもできた。けれど、どうしても一言だけ伝えたくなった。
私は結婚式の写真を選び、夫の顔だけわからないようにして、返信に添えた。
『おかげさまで、とーっても優しい素敵な人と結婚しました! 私、いい笑顔してるでしょ? この人のおかげで心から笑えるようになったの』
少し意地悪だったかもしれない。
けれど、写真に写る私は、本当に幸せそうに笑っていた。
その後、以前の恋人から再びメールが届いた。
そこには、昔の自分の言動を悔やみ、謝る言葉が書かれていた。当時は仕事のストレスや金銭面の不安もあり、私に八つ当たりしていた部分もあったのだという。
けれど、そんな話は付き合っていた頃、一度も聞いたことがなかった。
お金がないと言いながら、自分の好きなことにはそれなりにお金を使っていたし、私が会いに行ったときも、費用のほとんどは私が負担していた。
もちろん、私の知らないところで仕事の悩みを抱えていたのかもしれない。
それでも、あの頃の私は、彼を怒らせる自分が悪いのだと思い、何度も泣いて謝っていた。どうすれば認めてもらえるのか、必死に考えていた。
そんな日々を過ごしたあとで、今さら仕事のストレスが原因だったと説明されても、心が動くことはなかった。
ただ、もう終わったことなのだと思った。
私はメールを読み終えると、そのまま画面を閉じた。
もう、返信しようという気持ちは湧かなかった。
かつては、彼からの連絡一つに一喜一憂していた。返事が来なければ不安になり、機嫌を損ねていないかと気をもんだ。
それなのに今は、彼が何を考えているのかも、私のことをどう思っているのかも、気にならなかった。
私には、もう大切にしたい人がいる。
帰りたい家があり、これから一緒に生きていきたい人がいる。
あの八年間を、なかったことにはできない。
それでも、今の私の心の中に、もう彼の居場所はなかった。
◇
今でも、私にはどうしても口にするのが苦手な言葉がある。「愛してる」という言葉だ。
夫は、ときどき私にそう言ってくれる。
そのたびに、とても嬉しくなる。こんなふうに想いを伝えてもらえることが、私は幸せで仕方がない。
けれど、同じ言葉を返そうとすると、どうしても口が重くなってしまう。
「私も……」
そう答えて、夫にぎゅっと抱きつく。
今の私には、それが精いっぱいだ。
もちろん、夫を愛していないわけではない。むしろ、こんなにも大切に思える人と出会えたことが、今でも不思議なくらいだ。
それなのに、いざ「愛してる」と言葉にしようとすると、昔の記憶が重なってしまう。
毎日のように泣いて謝り、もう何を話せばいいのかわからなくなっていた、あの頃の電話。
以前の恋人に「愛してる」と言われても、いつしか心は動かなくなっていた。それでも、同じ言葉を返さなければ、彼を悲しませてしまうと思っていた。
どんなにつらい日でも、最後には「愛してる」と言わなければならない。そう思うほど、その言葉を口にすることが苦しくなっていった。
今は違う。
夫への気持ちに迷いはないし、これからもずっと一緒にいたいと思っている。
それでも、長い間つらい記憶と結びついていた言葉は、簡単には口にできないらしい。
言葉にできない分、抱きしめる腕に気持ちを込める。
ちゃんと伝わっているといいな、と思いながら。
私は普段から、夫によく甘えている。
好きだから、そばにいたい。触れたいし、抱きしめてほしい。そんな気持ちは、以前よりずっと素直に伝えられるようになった。
今でも、ふと昔のことを思い出し、心がざわつくときがある。
そんなときは、夫のそばへ行く。
隣に座って肩に寄りかかったり、後ろから抱きついたり。夜なら、眠っている夫の腕の中にそっと潜り込むこともある。
「どうしたの?」
「ちょっと、くっつきたくなっただけ」
夫はそれ以上理由を尋ねることもなく、私を抱き寄せてくれる。
「よしよし。甘えん坊さんだね」
大きな手が、優しく頭をなでる。
その温もりに包まれていると、胸の奥に広がっていた落ち着かない気持ちが、少しずつ和らいでいく。
もう大丈夫。
今、私がいるのは、あの頃とは違う場所だ。
昔の怖さが、すっかり消えたわけではない。
それでも、今はつらい気持ちを一人で抱え込まなくていいし、抱きしめてほしいときには、素直にそう伝えられる。
夫の腕の中にいると、そんな当たり前のことを、改めて思い出すのだった。
◇
結婚してから、私たちはいくつもの季節を一緒に過ごしてきた。
その間に子どもたちも生まれ、かつては自分が結婚することさえ想像できなかった私は、いつの間にか母親になっていた。
毎日は慌ただしい。家事に育児に追われ、ゆっくり座る暇もない日だってある。もちろん、すべてが順風満帆だったわけではない。
私は相変わらず掃除や片づけが苦手だし、家事のことで注意されることもある。意見が合わずに喧嘩をすることだってあるし、夫もいつでも穏やかでいられるわけではない。
それでも、私は今の暮らしが好きだ。
夫は今でも、私の何でもない話やくだらない冗談に付き合ってくれる。何かを贈れば喜んでくれるし、疲れて甘えにいけば、いつものように抱きしめてくれる。
私自身も変わった。昔ほど人見知りではなくなったし、母親になって強くなったところもあると思う。以前なら一人で抱え込んでいたことも、今は人に相談できるようになった。
けれど、昔のことをすっかり忘れたわけでもない。誰かの強い口調に思わず身構えたり、以前の恋人に似た人を見かけて胸が苦しくなったりすることは、今でもある。
長い時間をかけて身についた怖さは、幸せになったからといって、すべて消えるわけではなかった。
それでも、私はもう、自分の気持ちを何もかも押し殺して暮らしてはいない。
嫌なことがあれば嫌だと言えるし、困ったときには助けを求められる。失敗したからといって、自分のすべてが否定されるわけでもない。
そして、いろいろな経験を重ねてきた今でも、私の根っこの部分はあまり変わっていなかった。
好きな人には何でもない話をしたい。贈り物をするのが好きで、嬉しいことがあればすぐに伝えたくなる。ときには甘えて、抱きしめてほしいとも思う。
どれも、昔から私の中にあった気持ちだ。
かつての私は、そんな自分を変えなければ愛してもらえないと思っていた。
けれど、今はもう、そうは思わない。
◇
「ねえ、お母さん」
娘の声に、私は顔を上げた。
いつの間にか、アルバムのページはずいぶん進んでいた。娘は結婚式の写真を指さしている。
「お父さんのどこが好きになったの?」
私は少し考えた。
優しいところ。穏やかなところ。一緒にいると楽しいところ。好きなところを挙げ始めたら、きっときりがない。
けれど、一番大切なことは、もっと単純だった。
「そうねえ……お父さんといると、お母さんはお母さんのままでいられるの」
娘は不思議そうに首を傾げた。
「えー、なにそれ。よくわかんない」
「自分が自分らしくいられるのは、とても大事なことなのよ」
そう説明してみたものの、娘にはまだ難しかったらしい。
「でも、お母さんはいつもお母さんじゃん」
その言葉に、私は思わず笑ってしまった。
そうだ。この子は知らない。
好きな人に嫌われたくなくて、自分を変えようと必死だった頃の私を。何を言っても叱られるような気がして、言葉を選んでばかりいた私を。
この子にとっては、私が私らしく笑っていることが当たり前なのだ。
お父さんの隣で、お母さんが安心して笑っている。それは、この子にとって何も不思議ではない、いつもの日常なのだろう。
私はもう一度、アルバムに目を落とした。
写真の中の私は、夫の隣で満面の笑みを浮かべている。
あの日から、ずいぶん長い時間が経った。けれど、夫の隣でこうして笑えることは、今も変わらない。
私は娘の頭をそっとなでた。
「そうね。お母さんは、いつもお母さんね」
娘は納得したように笑うと、また楽しそうにページをめくり始めた。
私はその隣で、結婚式の写真を眺めた。
かつての私は、誰かに愛されるためには、自分を変えなければならないと思っていた。
けれど、今ならわかる。そんなふうに自分を変え続ける必要はなかったのだ。
自分のままで、誰かを好きになれること。そして、そんな自分を、そのまま愛してもらえること。
私が望んでいたのは、ただそれだけだった。
――今の私は、私のままで幸せだ。




