第六話 優しさを信じられるようになるまで
彼とは、ゲームの外でもいろいろな場所へ出かけた。
本屋で待ち合わせをして互いに気になる本を眺めたり、おすすめの小説を貸し合ったり。旅行の計画を立てるのも楽しかった。
そんな彼の優しさを、また違った形で知ることになったのは、ある旅行へ出発する日のことだった。
その日、私たちは夜行バスに乗る予定だった。
予定どおり乗り場へ向かい、受付で名前を告げた。ところが、係の人から予約が見つからないと言われてしまった。
――そんなはずはない。
慌てて予約内容を確認した私は、血の気が引いた。
日付が、一日違う。
私が予約していたのは、翌日のバスだった。
「ごめん! 私、日付間違えて予約してた……!」
隣にいる彼に謝りながら、頭の中が真っ白になった。
せっかく二人で計画した旅行なのに。宿泊先も、その先の予定も決めていたのに。
私の確認不足で、全部駄目になってしまうかもしれない。
彼は係の人と話しながら、携帯電話を操作していた。
私はその横で、ますます身を縮こまらせた。
呆れられただろうか。どうしてちゃんと確認しなかったんだと、責められるだろうか。
そう言われても仕方がない。実際、間違えたのは私なのだから。
何を言われるかと身構えていると、係の人が当日の便に空席があることを確認してくれた。
幸い、私たちは無事にその日のバスへ乗れることになった。
――よかった。
心底ほっとした私は、改めて彼に頭を下げた。
「本当にごめんね……」
「俺もちゃんと確認しとけばよかったね」
彼は私を責めることなく、そう言ってくれた。
それから、先ほどまで携帯電話で何を調べていたのか教えてくれた。
もしバスに乗れなかった場合に備えて、最終の新幹線や翌朝の飛行機を探していたのだという。
「でも、バスに空きがあってよかったね」
私がいろいろと計画して、とても楽しみにしていた旅行だから、予約を間違えたせいで行けなくなるのは、あまりにも悲しいと思ったらしい。
私は驚いて彼を見た。
さっきまで彼が黙っていたのは、怒りをこらえていたからではなかった。
もし以前の恋人だったら、どうなっていただろう。
私の不注意を激しく責められ、自分で何とかしろと突き放されていたかもしれない。
実際、間違えたのは私なのだから、叱られても仕方がないと思っていた。
けれど、目の前の彼は違った。
私の失敗を責めるどころか、自分も確認すればよかったと言ってくれた。
そのことに、目から鱗が落ちるような思いがした。
――ああ、そうか。何か失敗したからといって、必ずしも怒鳴られるわけではないのだ。
困ったときには、責め合うのではなく、一緒に解決する方法を考えてもいい。
予約を間違えたことは反省しなければならない。次からは、きちんと確認しようと思った。
けれど、失敗してしまったときに、こうして味方になってくれる人がいる。
そのことが、驚くほど嬉しかった。
ちなみに、それ以来、旅行の予約をするたびに「今度は日付とか、大丈夫?」と冗談めかして聞かれるようになった。
私も「大丈夫!」と答えながら、予約確認メールを転送して、一緒に確認してもらうようになった。
あのときの失敗は、今では二人で笑える思い出になっている。
◇
私は昔から、編み物が好きだった。
誰かのために毛糸を選び、相手が喜んでくれたらいいなと想像しながら、少しずつ形にしていく。そんな時間が、何より楽しかった。
ただ、以前の恋人に贈ったマフラーには、苦い思い出がある。
一度も使ってもらえなかったことが寂しくて、手編みの贈り物には少し自信をなくしていた。
それなのに、新しく恋人ができると、私はまた彼のためにマフラーを編みたくなった。
懲りないなあ、と自分でも思う。
手編みのものを贈るなんて、重い女だと思われるかもしれない。また自己満足で終わるかもしれない。
そう考えながらも、気づけば彼の好きな色の毛糸を選んでいた。
今度は、編み方も変えてみることにした。
それまで慣れ親しんでいた棒針編みではなく、初めてのかぎ針編みに挑戦したのだ。ぱっと見ただけでは手編みだとわからないような、すっきりしたデザインにしたかったから。
慣れない編み方に苦労しながらも、毎日少しずつ編み進め、ようやく完成したマフラーを広げてみる。
自分では、なかなかうまくできたと思う。
それでも、彼が喜んで使ってくれるかどうか、少し不安だった。
もし今回も喜んでもらえなかったら、もう誰かのために編むのはやめて、自分のものだけ作るようにしよう。そんなことまで考えていた。
もうすぐクリスマスだった。
私たちは一緒にテーマパークへ出かける予定があったので、そのときに少し早いプレゼントとして渡そうと思った。
けれど、当日になっても迷いは消えなかった。
もし使ってくれなくても、がっかりした顔をしないようにしなければ。自分の気持ちを押しつけないようにしないと。
そう心に決め、私は少し緊張しながら完成したマフラーを差し出した。
「これ、少し早いんだけどクリスマスプレゼント。気に入らなければ無理して使わなくてもいいからね」
本当は、使ってもらえたら嬉しい。
でも、それを口にするのも怖かった。
彼はマフラーを広げ、私が編んだものだと知ると、嬉しそうに褒めてくれた。そして、迷うことなく、その場で首に巻いてくれた。
使ってくれるかどうかさえ不安だったのに、彼はこんなにも自然に身につけてくれた。自分が編んだマフラーが彼の首元にあることが、嬉しくてたまらなかった。
ただ、心のどこかには、まだ小さな不安が残っていた。
彼は優しい人だから、私に気を遣ってくれたのかもしれない。せっかく作ってきたものだから、その場では喜んでくれただけなのかもしれない。
けれど、彼はその冬、会うたびにマフラーを使ってくれた。
そして、翌年の冬にも。
「このマフラー、すごい気に入ってるよ」
そう言ってくれたとき、私はようやく、本当に喜んでもらえたのだと実感した。
私の作ったものが、彼の日常の中にある。一度きりの気遣いではなく、寒くなるたびに使いたいと思ってくれている。
そのことが、何より嬉しかった。
彼が喜んで使ってくれたこともあって、私はそれからも、かぎ針編みでいろいろなものを作るようになった。
今では、棒針編みよりもかぎ針編みのほうが得意なくらいだ。子どもが生まれてからは、小さな帽子を編んだこともある。
誰かに喜んでもらいたくて始めたことが、こうして私自身の楽しみも広げてくれた。
私は、誰かのために何かを作ることが好きだ。
その気持ちは、昔から何も変わっていない。
そして、変える必要もなかったのだ。
◇
恋人同士になって初めてのクリスマスには、彼から財布をプレゼントしてもらった。
以前、一緒に買い物をしていたとき、私が何気なく「かわいい」と言ったものだった。
「え、この財布!」
「この前、かわいいって言ってたから」
たった一度の何気ない言葉を覚えていてくれたことが嬉しくて、私はその財布を、のちにボロボロになるまで使った。
こうして彼と過ごす日々には、小さな嬉しい出来事がたくさんあった。
一緒にゲームをしていて失敗しても怒られない。旅行の予約を間違えたときには、一緒に解決策を探してくれた。車で出かけるときも、私が眠そうにしていれば「寝ていていいよ」と言ってくれる。
彼が優しくて穏やかな人だということは、もう十分にわかっていた。
それなのに、心のどこかには、まだ小さな疑いが残っていた。
以前の恋人だって、最初から私に怒鳴っていたわけではない。付き合い始めた頃は優しかったし、私も心から好きだった。
けれど、いつしか彼は、私が自分を怒らせるから悪いのだと言うようになった。
今の彼も、いつか変わってしまうのではないだろうか。
何か大きな失敗をしたら。彼の機嫌を損ねるようなことをしてしまったら。これまで見せてくれていた優しさが、突然なくなってしまうのではないだろうか。
頭では、そんなことはないと思っていた。それでも、長い間に身についた警戒心を、完全に捨てることはできなかった。
そんなある夜、私が車を運転していたときのことだった。
高速道路を走っていると、前方との距離が詰まっていることに気づくのが遅れ、私は慌てて強めにブレーキを踏んでしまった。
車が大きく減速し、助手席で眠っていた彼が身じろぎした。
――しまった。起こしてしまった。
せっかく気持ちよく眠っていたのに、私の不注意で起こしてしまった。怒られるかもしれないと思ったときには、もう身体がこわばっていた。
「……どしたー?」
寝ぼけた声が聞こえた。
「ごめん。ちょっとブレーキ強く踏んじゃって」
私は前を向いたまま謝った。どんな返事が来るだろう。呆れられるだろうか。それとも、どうしてそんな運転をするのだと叱られるだろうか。気をつけろよと不機嫌そうに言い捨てられるだろうか。
返事を待っていると、助手席から彼の手がそっと伸びてきた。
ぽん、ぽん。
頭を、優しくなでられた。
――……え?
一瞬、何をされたのかわからなかった。
どうして、私の頭をなでているの?
「うん、大丈夫」
彼はそれだけ言うと、また眠ってしまった。
私はハンドルを握り、前方に注意を向けながら運転を続けた。けれど、頭の中は疑問符でいっぱいだった。
私の不注意で起こしてしまったのに、彼は怒るどころか、頭をなでて、大丈夫だと言ってくれた。
助手席からは、もう穏やかな寝息が聞こえていた。
寝ているところを起こされても、この人は怒らないのだろうか。
そのときは、嬉しいというよりも、ただ不思議で仕方がなかった。
あまりにも自然な仕草だったからだろうか。私はあとになっても、何度もあの夜のことを思い返した。
後日その話をしてみると、彼はまったく覚えていなかった。
私は思わず笑ってしまった。私にとっては忘れられない出来事なのに、彼は覚えてすらいなかったのだ。
――ああ、この人は、本当にこういう人なんだ。
もちろん、彼にも機嫌の悪い日はあるだろうし、これから先、喧嘩をすることだってあると思う。絶対に怒らない人間などいない。
それでも、何か失敗するたびに、いつか豹変するのではないかと身構えなくてもいいのかもしれない。
彼がこれまで見せてくれた優しさを、疑わなくてもいいのかもしれない。
あの夜の、寝ぼけたまま私の頭をなでてくれた手を思い出すたびに、心の奥に残っていた警戒心が、少しずつほどけていった。
私はようやく、この人の優しさを心から信じられるようになってきたのだと思う。
彼は、私が以前どんな恋愛をしてきたのか、ほとんど知らない。
長い間、つらい思いをしていたことは、なんとなく伝わっているかもしれない。けれど、具体的に何があったのか、私から詳しく話したことはなかった。
だから、彼自身も気づいていないのだと思う。
彼にとっては日常の出来事でしかなかった、何気ない言葉や行動の一つひとつが、私が長い間、当たり前だと思い込んでいたことを覆し、少しずつ心を軽くしてくれたことに。
あの夜、頭をなでてくれた手の温かさを、私は今でも覚えている。
けれど彼は、あの頃の私がどれほど驚き、どれほど嬉しかったのか、きっと知らない。
それでいい。
彼と過ごす日々の中で、私は少しずつ、安心して自分らしくいられるようになっていったのだから。




