第五話 目から鱗が落ちていく日々
その間も、彼――のちに夫となる人とのメールは続いていた。
十二月の後半には、もう一度一緒に食事にも出かけた。初対面のときよりも緊張せずに話せるようになり、彼と過ごす時間がますます楽しみになっていた。
ただ、最初から何も不安がなかったわけではない。
年末のことだった。いつもやり取りしていた彼から、ぱたりと返事が来なくなった。
一日経っても、二日経っても連絡がない。三日ほど経つ頃には、私はすっかり不安になっていた。
何か気に障ることを言ってしまっただろうか。メールを送りすぎたのだろうか。それとも、もう私と話すのが嫌になったのだろうか。
相手から返事がないと、まず自分の言動に問題があったのではないかと考えてしまう。以前の恋愛で身についた癖が、また顔を出していた。
そんなとき、ようやく彼から連絡が来た。
聞けば、年末に友人たちと集まってゲームに夢中になっており、携帯電話をほとんど確認していなかったのだという。連絡できなくてごめんね、と謝ってくれた。
私は拍子抜けした。
――なんだ、ゲームをしていただけだったのか。
もちろん、先に一言教えておいてほしかった気持ちはある。けれど、嫌われたわけでも、怒っていたわけでもなかった。
そうわかった途端、張り詰めていた肩の力が抜けた。
そして新しい年を迎えた頃、今度は私が携帯電話を水没させてしまった。
連絡したくてもできない状況になり、年末とは逆の立場になってしまったのだから、なんとも間の悪い話である。
それでも、連絡が取れるようになると、またいつもどおりのやり取りが続いていった。
やがて、三回目に会うときは、食事だけでなく、一緒にどこかへ遊びに行こうという話になった。
一月は、八年間の恋愛を終えた解放感もあって、友人たちとの飲み会や遊びの予定を次々に入れていた。そのため休日の予定はほとんど埋まっており、たまたま空いていたのが私の誕生日だった。
こうして、私たちはその日に水族館へ出かける約束をした。
当日はお気に入りの帽子をかぶり、いつもより丁寧に身支度を整えた。三度目ともなると、彼に会えることがすっかり楽しみになっていた。
水族館では、並んで水槽を眺めながら歩いた。泳いでいる魚を見て、二人して美味しそうだと盛り上がり、思わず笑ってしまう。最初に会った頃ほど緊張することもなく、自然に会話を楽しめるようになっていた。
その日の夕方、私たちは観覧車に乗った。
景色を眺めていると、彼が一つの袋を差し出してきた。
私はそれを見て、思わず目を見張った。有名な宝飾店の袋だと、すぐにわかったからだ。
「え、これ……私に?」
「今日、誕生日だよね。プレゼント」
彼はごく自然にそう言った。
袋の中には小さな箱が入っていた。開けてみると、とても素敵なネックレスが収められていた。
八年間付き合っていた以前の恋人からは、誕生日プレゼントを一度ももらったことがなかった。
今、目の前にいる彼とは、まだ恋人同士ですらない。何度か会って、毎日のようにメールを交わしている、友達以上恋人未満の相手だった。
欲しいとねだったわけでもない。私の誕生日を覚えていて、自分から用意してくれた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
気づけば涙があふれていた。ちゃんとお礼を言いたいのに、言葉がうまく出てこない。涙を拭っても、次から次へとあふれてきてしまう。
そんな私の頭を、彼はそっとなでてくれた。
その手の温かさを感じながら、私はようやく、途切れ途切れにお礼を伝えた。
あとになって聞いた話では、彼はその観覧車の中で、私に気持ちを伝えるつもりだったらしい。
ところが、プレゼントを渡した途端に私が泣き出してしまい、すっかり予定が狂ってしまったのだという。
そんなこととは知らず、私はその日も幸せな気持ちで帰った。
彼から告白されたのは、それから少し経った頃だった。
一緒に食事をした帰りだったと思う。交際を申し込まれたとき、私はすでに彼を好きになっていた。
けれど、恋人になる前に、どうしても確かめておきたいことがあった。
「私、毎日メール送ってるけど迷惑じゃない?」
「なんで? 嬉しいけど?」
あまりにも自然な返事に、胸の奥がふっと軽くなった。
毎日連絡したいと思うことも、何でもない話をしたいと思うことも、迷惑ではないと言ってくれる人がいる。
「あと、私、察するのとか苦手だから……。もし嫌なこととかあったら、ちゃんと言ってね」
彼はそれも、ごく普通に受け止めてくれた。
こうして、私たちは恋人同士になった。
ちなみに、私が彼にとって初めての恋人だったと知ったのは、付き合い始めてからのことだった。
あれほど自然に接してくれていたので、恋愛経験がないとは思いもしなかった。
あの安心感は、もともとの人柄によるものだったのだろうか。
今でも、ときどき不思議に思う。
◇
付き合い始めて間もない頃、彼と食事に出かけたときのことだった。
少し前に社員旅行へ行っていた彼が、ふと思い出したように鞄を開けた。
「そういえば、お土産があるよ」
そう言って差し出されたのは、飾り気のない白い袋だった。
「行った場所とは全然関係ないんだけど、好きそうだと思って」
袋を受け取って中を覗くと、そこには私が普段から好んでいる食べ物が入っていた。
しかも、ただ同じ種類というだけではない。味や製法にもちょっとした好みがあるのだけれど、その条件までぴったり合っていた。
「えっ、これ……! ありがとう!」
思わず顔を上げると、彼は嬉しそうに笑っていた。
以前、何気ない会話の中で話したことがあったと思う。けれど、何度も話題にした覚えはない。それなのに、覚えていてくれたのだ。
旅行先でこれを見つけたとき、私のことを思い出してくれたのだろうか。
そう考えるだけで、嬉しくてたまらなかった。
私は昔から、旅行先でお土産を選ぶのが好きだった。
渡す相手の顔を思い浮かべながら、何を買えば喜んでもらえるだろうと考える。あれこれ迷いながら品物を選ぶ時間も、私にとっては楽しみの一つだった。
けれど、こうして誰かが私のことを考え、私の好きなものを選んでくれる。そのことが、こんなにも嬉しいとは思わなかった。
高価なものじゃなくていい。
旅先でそれを見つけたとき、私が喜ぶかもしれないと思ってくれた。
それだけで、十分だった。
◇
付き合い始めてから、私たちは新しくリリースされたオンラインゲームを一緒にプレイすることにした。
彼はかなりのゲーム好きで、本格的な攻略に使うキャラクターとは別に、私と遊ぶための新しいキャラクターを作ってくれた。一緒に強くなっていこうねと言ってくれたのが嬉しかった。
けれど、初めて一緒に遊んだ日のことは、今でもよく覚えている。
マウスを握る手の震えを、どうしても止めることができなかったのだ。
彼とかつての恋人は、まったく違う人だ。
メールでも、電話でも、デートでも、私を怒鳴ったことなど一度もない。いつも優しくて、とても穏やかな人だということは、もう十分にわかっていた。
それでも、一緒にゲームをするとなると怖かった。
何か操作を間違えたら。判断が遅れたら。取り返しのつかない失敗をしたら。
またヘッドホンから、怒鳴り声やため息が聞こえてくるのではないか。
頭では違う人だとわかっていても、身体はそう簡単に納得してくれなかった。
キャラクターを作るときも、私は恐る恐る尋ねた。
「私、下手かもしれないんだけど、弓やってもいいかな?」
昔から弓を使う職業が好きだった。けれど、うまく動かせる自信はなかった。好きだからという理由だけで選んでいいのか、わからなかったのだ。
「自分が好きなのやればいいんだよ」
彼はあっさり答えると、自分は弓と相性のいい近接戦闘の職業にしようかと考え始めた。
そんなに簡単に決めていいのだろうか。私がうまく動けなかったら、迷惑をかけるのではないだろうか。
そんな不安を抱えていた私に、彼は思いがけないことを言った。
「ゲームの中でデートしようよ」
ゲームの中で、デート?
私は驚いた。
彼は景色の綺麗な場所へ連れていってくれた。
二人で並んで歩き、遠くの風景を眺め、気になる場所があれば寄り道する。もちろん狩りに出かけることもあったけれど、効率よく経験値を稼ぐことだけが目的ではなかった。
彼は、私と一緒に遊ぶことそのものを楽しんでいるようだった。
ヘッドホンから聞こえてくる声は、いつもと変わらず穏やかで優しい声だった。ため息も、舌打ちもない。私が少し迷っても、急かされることはなかった。
楽しかった。ゲームをしながら、こんなふうに自然に笑えるのは久しぶりだった。
それでも、マウスを握る手にはまだ力が入っていた。
今はまだ何も失敗していないから、優しくしてくれているだけかもしれない。そんな考えが、頭の片隅から離れなかった。
あるとき、戦闘中に私のキャラクターが倒れてしまった。
画面を見た瞬間、心臓が跳ね上がった。
やってしまった。
「ごめんなさい!」
自分でも驚くほど切羽詰まった声が出た。
判断を間違えて、こんなところで死んでしまうなんて。馬鹿なミスをしたせいで、彼に迷惑をかけてしまった。
何を言われるだろう。呆れられるだろうか。大きなため息をつかれるだろうか。
次の言葉を聞くのが怖かった。
けれど、ヘッドホンから返ってきたのは、いつもと変わらない穏やかな声だった。
「どんまいー」
私は思わず聞き返した。
「……え? 怒らないの?」
「え? なんで怒るの?」
彼は、本当に不思議そうだった。
私はしばらく言葉が出なかった。
失敗したのに。自分の不注意でキャラクターが死んでしまったのに。
それでも、怒られないの?
私にとっては信じられないことだった。けれど、彼にとっては、ゲームで失敗したくらいで怒る理由などないのだろう。
そのとき、目から鱗が落ちた気がした。
――ああ、そうか。ゲームって、失敗しても怒られないんだ。
好きな職業を選んで、二人で寄り道をして、たとえ失敗しても笑ってまた遊べる。
そんな当たり前の楽しさを、私はいつの間にか忘れていた。
私はもう一度、キャラクターを動かし始めた。
今度は、失敗しないことばかり考えるのではなく、彼と一緒に冒険する時間を楽しみたかった。




