第四話 八年間に別れを告げる
サイトで知り合った彼とメールのやり取りを始めてから、二週間ほどが経った頃だったと思う。
「美味しいお店があるんだけど、よかったら一緒に行きませんか?」
届いた誘いを見て、私はしばらく携帯電話を握りしめていた。
会ってみたい。メールではあんなに楽しく話せるのだから、きっと直接会っても楽しいはずだ。
けれど、私は昔から筋金入りの人見知りだった。
特に男性が苦手で、メールでなら普通に話せるし、冗談だって言えるのに、初対面の男性を目の前にすると途端に言葉が出なくなる。美容院で男性の美容師に担当してもらうことさえ苦手なくらいだった。
そんな私が、顔も知らない男性と二人で食事をするのだ。
会ってみたい気持ちは確かにあった。けれど、いざ約束をしようと思うと、急に緊張してきた。メールではあれほど話していたのに、実際に会って何も喋れなかったらどうしよう。
私は会う前に、彼に極度の人見知りであることを打ち明けた。メールでの印象と実際の自分は、ずいぶん違うかもしれない、とも伝えたと思う。
それでも彼は気にした様子もなく、「美味しいから期待してて」と、会う日を楽しみにしてくれていた。
十二月初めの週末。
いざ当日になると、私はすっかり緊張していた。
どうしよう。心臓が落ち着かない。
あれほど楽しみにしていたはずなのに、待ち合わせの時間が近づくほど、不安ばかりが大きくなっていく。
なんで私、会うって言っちゃったんだろう。
そんなことまで考えてしまうほど、心臓が激しく鳴っていた。
待ち合わせ場所へ向かう途中、私は彼に渡すためのクッキーを買った。
初めて会う相手にお土産を用意するなんて、少し変わっているかもしれない。でも、毎日楽しくメールしてくれているお礼に、何か渡したかったのだ。
けれど、クッキーを買ったからといって、緊張が和らぐわけではなかった。
待ち合わせ場所が近づくにつれて、ますます心臓がバクバクしてくる。冷や汗まで出てきて、どうにも落ち着かなかった。
それでも、せっかく勇気を出して決めたのだから。私は緊張を抱えたまま、待ち合わせ場所へ向かった。
待ち合わせ場所に現れた彼は、想像していたよりもずっとがっしりした体格をしていた。
広い肩に、大きな背中。背丈は八年間付き合ってきた恋人とほとんど変わらないのに、体格はこちらのほうがずっと立派だった。
それなのに、不思議と威圧感はなかった。穏やかな目元のせいだろうか。同じくらいの背丈でも、こんなに印象が違うものなのかと思った。
「は、初めまして……」
どうにか挨拶をしたものの、私はまともに顔を上げられなかった。
メールではあれだけ話していたのに、いざ本人を前にすると、やはり何を言えばいいのかわからない。
彼は、そんな私の顔をそっと覗き込んだ。
「初めまして。そんなに緊張しなくても大丈夫だよ」
落ち着いた柔らかな声だった。
初めて聞くはずなのに、すっと耳になじむような話し方で、少しだけ安心した。
優しく笑いかけられると、今度は恥ずかしさが込み上げてきた。
「あの、その、ほんとに人見知りで……」
自分でも情けないほど、声が上ずっていたと思う。
それでも、彼はからかったり、無理に話させようとしたりはしなかった。
ふと、用意していたクッキーのことを思い出し、私は慌てて鞄を開けた。
「あ、あの。さっきお店でクッキーを買ったので、よければ……」
「え、ありがとう! 俺、なにも用意してなかった。ごめんね」
彼は差し出した袋を嬉しそうに受け取ってくれた。それだけで、少し肩の力が抜けた気がした。
店へ向かう道すがら、彼は自然と私の歩く速さに合わせてくれた。
私が言葉を探している間も、急かすことなく待ってくれる。
初対面の男性と二人きりで、相変わらず緊張はしていた。けれど、不思議と怖さはまったく感じなかった。
連れていってもらったのは、美味しいイタリアンのお店だった。カウンターに並んで座ったおかげか、向かい合って話すよりは緊張せずに済んだ。
好きなゲームや本の話をしているうちに、いつものメールの延長のように会話が弾んでいく。最初は何を話せばいいのかと心配していたのが嘘のようだった。
そして、食事を終えたあとの会計でも、思いがけないことがあった。
これまでの恋人との食事では、私が代金を負担することがほとんどだった。だから、このときも自分の分は払うつもりでいた。
「私も払います」
そう伝えると、彼は穏やかに笑った。
「今日は俺が誘ったので、おごらせて」
初めて会ったばかりなのに、食事をご馳走してくれるなんて。
そんなふうに気遣ってもらえるとは思っておらず、嬉しい反面、少し戸惑ってしまった。
それでも、ありがたくご馳走になることにした。
店を出る頃には、会う前にあれほど緊張していたことが嘘のようだった。
楽しかった。
誰かと話すことを、こんなふうに素直に楽しめるのは久しぶりだった。
あとになって聞いた話では、彼は私が右手の中指につけていた指輪を見て、恋人がいるのだと思ったらしい。
その指輪自体は、ただのおしゃれでつけていたものだった。けれど、実を言えば、当時の私はまだ八年間付き合った恋人と正式には別れていなかった。
ただ、その頃には私から連絡する回数を減らし、少しずつ距離を置こうとしていた。
正面から別れを告げる勇気はなかった。だから、連絡を減らしていけば、いつか自然に関係が終わるのではないかと考えていたのだ。
この頃の私は、少しずつ外の世界に目を向けるようになっていた。
自分の好きなことを楽しみ、知らなかった考え方に触れ、ほかの人とも気負わずに話せることを知った。
そんな経験を重ねるうちに、私は確信し始めていた。
やはり、これまでの恋人との関係は、どこかおかしかったのだと。
このままずっと続けていてはいけない。いつかは自分の手で、あの関係を終わらせなければならない。
そんな思いが、少しずつ強くなっていた。
◇
初めて会ったあとも、私たちは変わらずメールを続けていた。
会社の忘年会で船酔いしてしまったときには、その散々な出来事を報告した記憶がある。
朝になれば挨拶を送り、何かあれば話したくなる。流星群が見られる日には、それぞれ違う場所から同じ空を眺めながらメールを交わした。
そんな日々の中で、私は知人から、性格や行動の傾向を読み解くという鑑定について、話を聞く機会があった。
もともと占いの類いは、当たるも八卦、当たらぬも八卦だと思っている。
それが科学的に正しいものかどうかもわからない。けれど、そのとき聞いた話は、妙に納得できるものだった。
その鑑定によると、私は人から言われたことを素直に受け入れるのが苦手で、約束を守ることもあまり得意ではないらしい。あれこれ頭で考えるより、自分の直感に従って行動するほうが向いているのだという。
そう言われて、私は思わず納得してしまった。
――なるほど。だから何度直そうと思っても、うまくいかなかったのか。
恋人から何かを指摘されるたびに、私は自分の悪いところを直そうとしてきた。
もっとちゃんとしなければ、もっと相手を思いやらなければと何度も決意して、そのたびにうまくいかず、自分を責めていた。
けれど、もともと人から言われたことを受け入れるのが苦手な性格なのだとしたら、努力してもうまくいかなかったことにも、少し納得がいく気がした。
もちろん、約束を守らなくてもいいとか、人の意見を聞かなくてもいいという話ではない。自分に悪いところがあるなら、直そうと努力することも必要だろう。
でも、私は本当に、そこまで自分を変えなければならないのだろうか。
好きなことを楽しんだり、一人の時間を欲しがったり、疲れたから休みたいと思ったりすることまで、直さなければならない欠点なのだろうか。
相手に合わせるために、自分の考え方も、好きなことも、望むことも変え続けなければならない。
そんなことを繰り返していたら、最後には自分らしさが何も残らなくなってしまうのではないだろうか。
そして、もう一つの考えが浮かんだ。
そもそも、私たちは合わないのではないだろうか。
考え方も、価値観も、人によって違う。それなら、どちらかが無理をして自分を変え続けるのではなく、それぞれが自分らしくいられる道を選んでもいいのではないだろうか。
そう考えると、胸のつかえが少し取れた気がした。
今まで私は、彼に愛されるためには自分が変わらなければならないと、当たり前のように思っていた。
けれど、ありのままの私を受け入れてもらえない関係を、無理に続ける必要があるのだろうか。
初めて、そんなふうに考えられた。
その日の深夜、私は日記を書いた。
自分のやりたいように生きていくこと。無理に自分を変えようとしないこと。そして、自分の直感を信じること。
今読み返すと、ずいぶん思い切ったことを書いている。けれど、あのときの私には必要な言葉だったのだと思う。
◇
数日後、私は覚悟を決めて、縁切りで知られる神社を訪れた。
八年間付き合ってきた恋人の不幸を願ったわけではない。楽しかった思い出もあるし、かつては本当に好きだった人だ。ただ、もう同じことを繰り返して、自分自身を失いたくなかった。
境内で絵馬を手に取り、私は自分の願いを書いた。
彼ときっぱり別れられますように。そして、これからはお互い、別々の場所で幸せになれますように。
書き終えた絵馬を掛けながら、改めて自分の気持ちを確かめた。
――もう、終わりにする。今度こそ。
ほどなくして、私は彼に電話をかけた。
「別れよう」
引き止められても、泣きつかれても、今回は絶対に戻らないと決めていた。
「もう何を言われても無理だから。嫌いになったんじゃない。でも、私がもう無理なの」
八年間のすべてを否定したかったわけではない。ただ、これ以上続けることができなかった。
「待ってるって言われても、もう私から連絡することはないから。だから、待たないで」
彼の部屋に残していた私物も、処分してもらうことにした。取りに行くために、もう一度会うつもりはなかった。
「それじゃあ、元気で。さようなら」
そう告げて、電話を切った。
涙は出なかった。
代わりに、大きなため息が漏れた。
私は座椅子に深く腰を下ろし、ぼんやりと天井を見上げた。
――終わった。
それが、そのときの正直な感想だった。
悲しいとか、寂しいとか、そんな気持ちは不思議なくらい湧いてこなかった。
八年間続いた初めての恋愛は、一本の電話で終わった。
あれほど迷い、泣いて、別れられずにいた関係を、ようやく自分の意思で終わらせることができたのだ。
それ以降、私から彼に連絡することはなかった。




