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第三話 少しずつ、私を取り戻す

 いつしか、彼との電話が億劫になっていた。それでも、毎日のように話すことは続いていた。


 着信に気づいていても、すぐには出ず、わざと少し時間を置くことがあった。

 電話に出れば、また何かを責められるかもしれない。そう思うと、画面に表示された彼の名前を見つめたまま、なかなか指が動かなかった。


 それでも、いつまでも出ないわけにはいかない。

 意を決して電話に出ても、何かの拍子に彼の機嫌を損ね、喧嘩になってしまうことがあった。


 そんなとき、どうしても耐えられなくなると、電波が悪くなって通話が途切れたふりをして、電話を切ったこともある。


 正面から「もう話したくない」とは言えなかった。

 ただ、これ以上責められる声を聞いていたくなかった。


 付き合いの後半には、毎日のように泣いて謝っていた気がする。

 何を言えば怒られずに済むのか。どう返事をすれば、彼の機嫌を損ねずに済むのか。

 考えれば考えるほど、何を話せばいいのかわからなくなっていった。


 それでも、電話の最後には決まって「愛してる」と言い合った。


 以前は、好きな人に伝えたいと思っていた言葉だった。彼から言われるたびに、胸が高鳴ったこともあった。

 けれど、いつしか彼から「愛してる」と言われても、心が動かなくなっていた。


 一度、あまりにもひどいことを言われて泣いてしまい、どうしても同じ言葉を返せなかったことがある。

 すると彼は、「もう言ってくれないんだ」というようなことを口にした。


 その言葉を聞いて、私は彼を悲しませてしまったのだと思った。

 私がちゃんと「愛してる」と言えなかったから。


 そのことがあってからは、どんなにつらいことを言われても、電話の最後には同じ言葉を返さなければならないと思うようになった。

 かつてはあんなにも嬉しかった言葉が、いつの間にか、口にすることさえ苦しいものになっていた。



 一人になりたい。もっと自分の時間が欲しい。

 そんなことを考えるようになったけれど、そのたびに、自分は恋人に対する思いやりが足りないのだと思った。


 当時の私は、誰にも見せない日記に、そんな気持ちを書き残していた。

 別れてしまったほうがいいのかもしれない。でも、きっと後悔する。何も考えずに、一か月くらい眠っていたい。


 そして最後には、こんな言葉を書いていた。

 ――癒されたい。


 今振り返れば、あの頃の私は本当に疲れていたのだと思う。


 仕事でも気を張り、恋人との会話でも気を張る。好きな人と一緒にいるはずなのに、安心して弱音を吐くことができない。


 それでも、私がもっと努力すれば、きっとうまくいくはずだと思っていた。

 彼が嫌がることはしない。喜びそうな話をする。失敗しないように気をつける。期待しすぎない。わがままを言わない。


 そうやって自分の言葉や行動を制限していくうちに、自分がいったいどういう人間なのか、わからなくなっていった。


 最初は、彼に喜んでほしくて頑張っていた。

 それがいつの間にか、彼に怒られないために頑張るようになっていた。


◇


 だからといって、私の毎日がすべて暗かったわけではない。


 友達と出かけるのは好きだったし、旅行に行くのも好きだった。ゲームも、読書も、物を作ることも、ずっと好きなままだった。


 友人が結婚するときには、ウェルカムボードを作ったこともある。


 どんなデザインにしようかと考え、材料を揃えて、少しずつ形にしていく。

 大切な友達の晴れの日に、自分の作ったものを飾ってもらえるのが嬉しかったし、作業に夢中になっていると、時間はあっという間に過ぎていった。


 けれど、自分の好きなことに時間を使えば、そのぶん彼と過ごす時間は減ってしまう。それについても、不満を言われたことがあった。


 以前なら、私は慌てて彼との時間を作ろうとしたかもしれない。

 けれど、その頃には、何よりも彼を優先しなければと思う気持ちが、少しずつ薄れていたように思う。


 自分の好きなことに夢中になれる時間が、純粋に楽しかった。誰かの機嫌を気にせずに過ごせることが、心地よかったのだ。



 やがて私は、一人旅にも出かけた。


 大好きなテーマパークへ行き、そのあと近くの観光地まで足を延ばした。夏の暑い日だったけれど、現地でマウンテンバイクを借り、あちこち走り回った。


 行きたい場所を調べ、自分で予定を組む。気になる場所があれば立ち寄り、次はどこへ行こうかと考える。

 強い日差しの下で汗だくになりながら走っていたのに、不思議なくらい楽しかった。


 誰かの歩調に合わせる必要も、機嫌をうかがう必要もない。

 どこへ行こうか、何を食べようか、次は何を見に行こうか。

 全部、自分で決められる。


 予定が変わっても、誰かに怒られるわけではない。思いどおりにいかなければ、そのときに別の方法を考えればいい。


 ただ、自分の行きたい場所へ、自分のペースで向かう。

 そんな当たり前の自由が、あの頃の私には何より心地よかった。


 今思えば、私は少しずつ、自分のための時間を取り戻そうとしていたのかもしれない。

 けれど、それと恋人との関係を終わらせることは、まったく別の話だった。


 何度か、そんなに私のことが嫌なら別れてくれてもいいと、彼に伝えたことはある。それでも、結局は元に戻ってしまった。


 私はまだ、別れるという決断を自分から下せずにいたのだ。


 彼のことが好きなのか。別れるのが怖いだけなのか。それとも、長く付き合ってきたから、今さらやめられないと思っているのか。

 自分でも、よくわからなかった。


 ただ、以前のように、彼と一緒にいる未来を楽しみにできなくなっていたことだけは確かだった。

 私は少しずつ、彼との距離を置こうとしていた。


◇


 その頃、私は一つのことを考えるようになっていた。

 もしかしたら、私の恋愛観はおかしいのかもしれないと。


 彼は初めての恋人だった。

 ほかの男性と付き合ったことはないし、男性の友達もほとんどいなかった。

 だから、普通の恋人同士がどんなふうに接するものなのか、自分には比較できる経験がなかった。


 毎日メールを送りたいと思うのは、重いのだろうか。

 プレゼントを贈るのが好きで、相手にも少しは返してほしいと思うのは、自分勝手なのだろうか。

 好きな人には甘えたいし、抱きしめてもらいたい。そんなことまで望んでしまう私は、欲張りなのだろうか。


 彼と付き合っている間、私は何度もそんなことを考えていた。


 そしてある日、また彼からきつい言葉を言われたあとだったと思う。私は衝動的に、出会いを目的としたサイトを開いた。


 以前、彼の携帯電話で、ほかの女性と会う約束をしているようなメールを見つけたことがある。そのことへの反発心も、少しはあったのかもしれない。


 けれど、一番大きかったのは、彼以外の男性がどんなことを考えているのか知りたいという気持ちだった。


 まだ彼とは別れていなかった。その状態で出会いを目的としたサイトに登録することが、褒められた行動ではないのはわかっている。


 ただ、すぐに新しい恋人を見つけようと思っていたわけではなかった。

 彼以外の人とも話してみたい。自分とは違う考え方に触れて、もう少し世界を広げてみたい。

 そう思って、私はサイトに登録した。


 ところが、実際に届くのは、私のプロフィールをきちんと読んでいるとは思えないメッセージばかりだった。趣味や好きなことには触れず、最初から会うことだけを目的にしているような誘いも多かった。


 ――なんだ、結局こんなものなのか。


 少しがっかりしていた頃、一通のメッセージが届いた。

 そのメッセージは、私がプロフィールに書いていた趣味に触れていて、それまでに届いたものとは違い、私自身に興味を持ってくれているように感じられた。

 私は少し心を引かれ、返事をしてみることにした。


 それが、のちに夫となる人との、最初のやり取りだった。


 その人もゲームが好きで、住んでいるのも私と同じ地域だった。メールを交わしてみると、驚くほど話が合った。私の送った内容に答えてくれるだけでなく、向こうからも質問してくれる。

 そんな何気ないやり取りが、思いのほか楽しかった。


 そして、何より嬉しかったのは、朝の挨拶に返事が来たことだった。


 学生時代、私は毎朝のように、通学途中で恋人に「おはよー」とメールを送っていた。けれど、返事が来ることはほとんどなかった。


 一度、そのことを寂しく思っていると伝えたことがある。すると彼は、毎朝メールを送るのは私の自己満足であって、それに返事を求めるのは自分勝手だと言った。


 確かに、彼から頼まれて送っていたわけではない。好きだから、朝の挨拶をして、今日も頑張ろうねと伝えたかった。それは私が勝手にしていたことだ。

 だから、それ以来、返事を期待するのはやめようと思っていた。


 そんな私に、新しく知り合ったその人は、ごく自然に返事をくれた。


「おはよう。今日もお互い仕事頑張りましょう」


 本当に、それだけだった。

 けれど、たった一言の返事が嬉しかった。私が送った挨拶を当たり前のように受け取ってくれたことが、何より嬉しかったのだ。


 メールを始めて二、三日ほど経った頃だったと思う。


 好きな音楽の話をしていたとき、私は、ある曲を好きになったきっかけとして、とある小説の名前を挙げた。すると、思いがけない返事が届いた。


「それ、知ってるの!?」


 驚いたのはこちらも同じだった。まさか、その小説を知っている人に出会えるとは思っていなかったからだ。

 私にとっては大好きな作品で、どうやら相手も同じだったらしい。


 そこから、今度はその作品の話で盛り上がった。好きな登場人物や、印象に残っている場面のこと。音楽の話をしていたはずなのに、気づけば小説の話に夢中になっていた。


 画面の向こうにいるのは、まだ会ったこともない男性だった。顔も知らなければ、本当の名前さえ知らなかった。それなのに、不思議なくらい話しやすかった。


 好きなものについて、遠慮なく語り合える。相手の話を聞いていると、もっといろいろなことを知りたくなる。

 私はいつの間にか、その人からのメールを楽しみにするようになっていた。


 のちに知ったことだけれど、その人もまた、何か月もいい出会いがなく、そろそろサイトをやめようかと考えていたらしい。

 もちろん、その頃の私はそんなことなど知らず、ただ毎日のやり取りを楽しんでいた。


 メールの返事が待ち遠しくて、以前よりも携帯電話を開く回数が増えた。新しいメールが届いていると、それだけで嬉しくなる。


 恋人からの電話に出ることさえ億劫になっていた私が、今は誰かからの連絡を、こんなにも心待ちにしている。


 次はどんな話をしよう。どんな返事が来るだろう。

 以前は、相手を怒らせないために話す内容を考えていた。それが今は、次に何を話そうかと考えることさえ楽しくなっていた。


 その変化が自分にとって何を意味しているのか、まだよくわかっていなかった。

 ただ、携帯電話の画面を見ながら、自然と笑うことが増えていた。


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