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第二話 ささやかな願いさえ許されず

 やがて、気を遣うのはゲームの中だけではなくなった。

 彼と電話をするときも、話す内容を考えるようになっていた。


 当時の私は転職したばかりで、新しい仕事を覚えるのに必死だった。慣れない環境で失敗することもあったし、理不尽だと感じることもあった。


 そのうえ、家庭の事情も重なっていた。家のことでも気を張る日々が続き、仕事から帰っても、なかなか気の休まる時間がなかった。


 だから、恋人に話を聞いてほしかった。

 今日はこんなことがあった。あれは大変だった。

 ちょっと愚痴をこぼして聞いてもらえたら、それだけで少しは気持ちが軽くなると思っていた。


 けれど、彼は不機嫌になった。


「いつも会社の文句や愚痴ばっかりで、聞かされるこっちの身にもなれよ。お前は本当に自分のことばっかりだな」


 言われてみれば、当時の私は確かに愚痴が多かったのかもしれない。話を聞く彼だって疲れるだろう。そう思って、仕事の不満を話すのはやめることにした。


 楽しかったことを話そう。二人で楽しめる話題を探そう。


 そう考えて、できるだけ明るく話すようにした。

 ところが、今度はよそよそしいとか、無理をして話しているように感じるとか、そんなことを言われた記憶がある。


 私は途方に暮れた。


 愚痴を言ってはいけない。でも、言わないようにすると不自然だと思われる。

 では、どうすればよかったのだろう。

 思い切って尋ねても、返ってきたのはお決まりの言葉だった。


「それくらい察しろ」


 結局、私は彼の機嫌を見ながら、話す内容を選ぶようになった。


 声の調子を聞いて、今日はどんな気分なのだろうと考える。

 この話はしても大丈夫だろうか。あの話はやめておいたほうがいいだろうか。


 気がつけば、電話をする前から緊張するようになっていた。


 ひどく疲れている日は、早く寝たかった。

 それなのに、頭が痛いから寝ると伝えただけで、彼が怒ってしまったこともある。

 私はまた、自分のことしか考えていなかったのだと思った。


 実際、当時の日記には、そんなことばかり書いていた。


 自分のやりたいことばかり優先している。相手を思いやる余裕がない。自分はしんどいことに弱くて、すぐに怠けてしまう。

 そんなふうに、自分を責めていた。


 今なら、転職したばかりで疲れていたのだから、休みたいと思うのも当然だったとわかる。

 けれど、当時はそう考えられなかった。


 彼に不満を持たれるのは、私の努力が足りないからだと思っていた。

 好きな人に認めてほしかった。ただ、それだけだったのに。


◇


 あまりにも暴言を浴びせられることがつらくなり、私は一度、インターネットで調べたことがある。

 そこで初めて知ったのが、「モラルハラスメント」という言葉だった。


 書かれている内容を読みながら、胸がざわついた。

 もしかして、私がされていることも、これに当てはまるのではないだろうか。

 思い切って、彼にその疑問を伝えた。


「こういうのって、モラハラってやつだと思うんだけど」


 けれど、彼は取り合ってくれなかった。


「お前のせいで、俺がこうなってるんだろ。お前が俺を怒らせるのが悪い」


 結局、悪いのは私なのだと言われた。

 私は、それ以上何を言えばいいのかわからなくなった。


 私がちゃんとしていれば、彼は怒らない。失敗しなければ、ひどいことも言われない。そういうことなのだろうか。


 けれど、どれだけ気をつけても、また怒らせてしまう。何がいけないのかもわからず、どうすれば認めてもらえるのか、その答えは見つからなかった。


 それでも私は、自分のほうが変わらなければならないと思っていた。


◇


 八年間の付き合いの中で、忘れられないクリスマスがある。


 私は彼のために毎年贈り物を用意していた。

 相手の喜びそうなものを選ぶのも好きだったし、クリスマスは感謝の気持ちをプレゼントとともに伝えられる特別な日だと思っていたからだ。


 その年は、珍しくお互いの休みが重なり、クリスマス当日に会うことができた。


 せっかくの機会だから、二人で楽しく過ごしたかった。

 彼とショッピングモールにも出かけ、店を見て回っているとき、二千円ほどの可愛らしい品物が目に留まった。


 思わず「これ、可愛いね」と口にしたことを覚えている。


 もちろん、買ってほしいとねだったわけではない。

 ただ、もしかしたら彼も、私のために何か選んでくれるかもしれない。そんな淡い期待が、心のどこかにあった。


 結局、その日も彼から贈り物をもらうことはなかった。


「プレゼントは?」


 夜になって、少しだけ冗談めかして聞いてみた。


 本当に軽い気持ちだった。何かもらえたら嬉しかったけれど、用意していないことを責めるつもりも、無理に買ってもらうつもりもなかった。


 ところが、彼は急に不機嫌になり、何も言わずに部屋を出ていってしまった。


 私は、何が起きたのかわからなかった。

 そんなに怒らせるようなことを言ってしまったのだろうか。突然のことに戸惑い、涙があふれてきた。


 少し外の空気を吸いに行っただけかもしれない。しばらくすれば戻ってくるだろうと思っていたけれど、一向に帰ってこなかった。


 電話をかけても、出てくれない。

 心配になった私は、彼を探しに駐車場へ向かった。


 外では雪が降っていた。冷たい空気の中、彼の車を探したけれど、いつも停めている場所には何もなかった。

 車ごと、どこかへ行ってしまったのだ。


 私は途方に暮れた。

 どこへ行ったのかもわからない。電話にも出てくれない。これ以上、探しようがなかった。

 仕方なく部屋へ戻り、もう一度電話をかけてみた。けれど、やはりつながらなかった。


 せっかく休みが重なったのに。

 ようやく、クリスマス当日に一緒に過ごせると思っていたのに。

 どうして、こんなことになってしまったのだろう。


 私は泣きながら、何度も自分の言葉を思い返した。

 プレゼントのことなんて聞かなければよかった。あんな余計なことを言わなければ、彼は怒らなかったのかもしれない。


 楽しみにしていたクリスマスを、自分で台無しにしてしまったのだと思った。


 私は、自分が贈り物をするのが好きだからといって、相手にも同じことを求めてしまったのだろうか。頼まれて贈っているわけでもないのに、お返しを期待するのは自分勝手なのだろうか。


 そんなことを考えていたとき、ふとクローゼットの上に置かれたマフラーが目に入った。

 彼の好きな色で、できるだけ肌触りのいい毛糸を選んだ。喜んでもらいたくて、一生懸命編んだものだった。


 けれど、結局一度も使ってもらえず、ずっとそこに置かれたままになっていた。

 私はそのマフラーを取り出し、胸に抱きしめた。


 彼は、普段からマフラーを巻く習慣がないのだと言っていた。

 それなら仕方がない。使う習慣がないものを、無理に身につけてほしいわけではなかった。

 それでも、一度くらいは巻いてみてほしかった。


 抱きしめたマフラーは、今でも柔らかかった。

 この毛糸なら気持ちよく使ってもらえるだろうか。そんなことまで考えながら選んだのに。

 頑張って編んだけれど、これも私の自己満足だったのだろうか。


 喜んでもらいたくて贈ったものさえ、彼にとっては押しつけだったのかもしれない。

 そう考えると、ますます悲しくなり、涙が止まらなくなった。


 私はマフラーを抱きしめたまま、泣き続けた。

 好きな人に喜んでもらいたい。そして私も、好きな人から何かをもらえたら嬉しい。

 ただそれだけの気持ちが、どうしてこんなにも難しいのだろう。


 プレゼントのことなんて聞かなければよかった。あんな余計なことを言わなければ、彼は怒らなかったのかもしれない。


 彼が戻ってきたら、もうプレゼントのことは言わないでおこう。何も期待しないようにしよう。

 そう決めたけれど、本当は期待する気持ちを簡単に消せるわけではなかった。


 数時間後に、ようやく彼が帰ってきた。


「変なこと聞いてごめんなさい。もう、あんなこと言わないから……」


 私は泣きながら、彼に謝った。


 ただ、少しだけ期待していただけだった。私のことを考えて、何か一つ選んでくれたら嬉しいと思っていただけなのに。


 それさえも、口にしてはいけなかったのだと、当時の私は思っていた。


◇


 直接会っているときにも、彼の機嫌を損ねて怒られることがあった。


 あるときなど、車の中で口論になり、彼から「消えてくれ」と言われたことがある。

 私は車を降り、そのまま駅まで歩いた。知らない土地を、一人で。


 どうしてそんなことになったのか、細かな経緯はもう覚えていない。ただ、好きな人に「消えてくれ」と言われたことと、駅まで歩いたことだけは、今でも記憶に残っている。


 電話では「ウザい」と言われることもあったし、「死ね」とまで言われたこともあった。

 そのたびに傷ついたし、腹が立って言い返すことだってあった。理不尽だと思わなかったわけではない。


 けれど、彼の言葉を聞いているうちに、いつしか自分のほうがおかしいのではないかと考えるようになっていた。


 彼は、私の駄目なところを理解できるのは自分くらいだというようなことも言っていた。そんな言葉を繰り返し聞くうちに、私は少しずつ、自分の判断に自信が持てなくなっていった。


◇


 一度、彼の携帯電話を勝手に見てしまったこともある。


 よくないことだとは、自分でもわかっていた。

 けれど、そのとき目にしたのは、出会いを目的としたサイトで知り合ったらしい女性とのメールだった。


 彼はその女性に、こまめにメールを送っていた。

 私が毎朝「おはよう」と送っても、返事をくれることはほとんどなかったのに。

 私にはろくに返信してくれないのに、ほかの女性にはこんなにこまめにメールを送るんだ。

 そう思うと、悲しくて、腹立たしくもあった。


 しかも、メールを見る限り、二人は会う約束をしているようだった。実際に会ったのかどうかは、今でもわからない。

 私がそのことを問い詰めると、彼は怒鳴り出した。結局、何が本当だったのかわからないまま、その話はうやむやになってしまった。


 今なら、あのとき別れていればよかったのかもしれないと思う。けれど、当時の私はどうしても踏み切ることができなかった。


◇


 付き合いが長くなるにつれ、私は彼の声の調子や表情の変化に敏感になっていた。


 電話越しに声のトーンが少し変わるだけで、反射的に謝ってしまう。

 実際に会っているときも同じだった。さっきまで普通に話していた彼の表情が冷たくなると、何がいけなかったのかもわからないまま、謝ることしかできなくなった。


 ところが、そんな私に彼は、何が悪かったのかも理解せず、とりあえず謝っているだけだと言った。反省していないから、何度も同じことを繰り返すのだとも。


 そう言われても、どうすればよかったのかわからなかった。

 怒らせたくない。

 その一心で言葉を選んでいるはずなのに、何を言っても間違えてしまうような気がしていた。


 初めての恋人だった。長い時間を一緒に過ごしてきたし、楽しかった思い出も確かにあった。

 彼を好きだった頃の自分を、私は忘れられなかった。


 別れてしまったら、きっと後悔する。

 そう思っていた。

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